2014年8月20日水曜日

常に、二つの見方 (30℃の考察)


「30℃」って、あついですか?




先日の旅行中に、
子どもたちと、室内温水プールに入ったのですが、
そのプールの水が、
絶妙に、冷たいんですね ^^ 。

最初、入水するときに、
少々の気合いがいります。
で、
一度、入ってしまうと、
後は、楽しく泳げます。

ただ、
そこは、流れるプールなんですが、
浮き輪の子どもたちといっしょに、流されていて、
ちゃんと泳がないと、身体を動かさないと、
すぐ、身体が冷えてくる、
というくらいの、温度です、
おじさんにとっては ^^; 。

で、
その、水温が、
 「31.2℃」
でした。

つまり、
 「水温『30℃』」
は、冷たかったです。


ところが、

冷たいプールの水で、すっかり身体を冷やされた、
 「『おじさん』ひで」 ^^
が、
プールの隣にある、温泉に行って、
しっかりと、身体を温めてから、
改めて、プールに入ると、
今度は、
プールの水は、冷たくありませんでした。

熱めのお湯につかり、
サウナにも入り、
しっかりと、身体を温め、
そして、
プールに入ってみると、

ぜんぜん、抵抗なく入れるし、
入ってからも、冷たさを感じません。

つまり、
 「水温『30℃』」
は、冷たくありませんでした。


ところで、

その日、
そのプールに入る前、
正確には分からないですが、
外気の気温は、
 約「30℃」
でした。

プールのある屋内に入ったときに、
 「すこし、涼しいなぁ」
と感じた記憶があるのですが、
そこの室内気温が、
 「27.6℃」
でしたので、
それより、すこし、高い程度だったと思います。

で、
そのとき、外は暑かったです。

なので、
 「気温『30℃』」
は、暑かったです。


普段、
千葉県で、生活していても、
基本的には、
空気は、ジメジメと、湿気を帯びているし、
しかも、
アスファルト、コンクリートに囲まれているので、
陽射しがあったりした場合には、

 「気温『30℃』」
は、暑いです。

というか、
千葉での『30℃』は、
もう、かなり暑いです ^^; 。


ところが、

旅行中は、天候にも恵まれ、
気温30℃を超える日が、多かったのですが、
訪れた場所は、高原だったため、
木陰に入ると、
とっても涼しかったです。

乾燥した空気の中、
木陰に入ると、
 「気温『30℃』」
は、涼しく、とても快適でした。


以上、まとめてみると、
 『30℃』
は、

僕にとっては、
 冷たくもあり、
 冷たくなくもあり、
 暑くもあり、
 かなり暑くもあり、
 涼しくもあり、
だといえます。

旅行中に、
こんなことを、
改めて、認識しました。


そして、
そんなことを認識して、
そこから、
津留さんの、次のような話を、思い出しました。


津留さんのDVDの中に、
 「この世界は、『どちらか』ではなく、『どちらも』です」
という話が、出てきます。

たとえば、
わたしたちは、
 「自分の大切な身体だから、大切にしなきゃ」
と思うこともあれば、
 「自分の身体なんだから、多少は無理をしてもいいや」
と思うこともある。

 「借りてきた車だから、大切に乗らなきゃ」
と思うこともあれば、
 「借りてきた車なんだし、ちょっとくらい、粗末に扱ったって ... 」
と思うこともある。

 「そうでしょ? どっちも、あるでしょ?」
って、津留さんは、言ってました ^^ 。

このように、
 この世界は、
  『どちらか』
 ではなく、
  『どちらも』
 なんです、
という話です。

そして、
津留さんは、続けます。

 「このように、
  この世界は、『どちらか』ではなく、『どちらも』です。」

 「そして、同じように、
  わたしたちは、『人間』であり、
  同時に、
  わたしたちは、『神』なんです。」


この世界は、
 「もともと『神』であったものが、
  『人間』であることができるように、
  創った世界」
なんですね。

だから、
津留さんが言っているとおり、
わたしたちは、
いま、この瞬間も、
いえ、たとえどの瞬間であっても、
 『人間』であり、
 かつ、同時に、
 『神そのもの』である
んですね。

言葉を換えれば、

わたしたちは、
いま、この瞬間も、
 『小我』であり
 かつ、
 『大我』である
ということです。

『わたし』とは、
 『小我』の自分と
 『大我』の自分との、
 総体だ、
ということです。

あるいは、
『わたし』の中には、
 『小我』と
 『大我』とが、
 常に、同時に、入っている
とも、言えます。


わたしたちの『五感』は、
この肉体に関するものしか、
感知できませんよね。

だから、
普段、
どうしても、
 「この肉体だけが、自分」
と、
認識してしまいがちです。

あるいは、
以前にも、
このブログで、触れたことがありますが(過去記事「バランス」)、

これまで、わたしたちは、社会から、
 「正解は、一つ」
 「答えは、一つ」
という前提のもとに、教育を受け、
また、
そのような前提のもとに、
社会システムが構築されてきました。

ですから、
無意識のうちに、
 『どちらか』
と、発想してしまうんですね。

そして、
 「わたしとは、この『自分』」
 「この『肉体』」
 「この『エゴ』」
 「この『記憶』」だ
と、認識してしまうんですね。

それは、
仕方のないことです。

そのように発想・認識してしまうこと自体は、
 「仕方がない」
と、諦め、
そして、
そのような自分を、否定することは、
どうぞ、なさらないでください。


ただ、
ぜひ、折にふれ、

 「わたしは、
  『この肉体の自分』であり、
  かつ、同時に、
  『大我』でもあるんだ」

ということを、
認識していただきたいのです。

そこに、
その『事実』に、
意識を向けていただきたいのです。

気がつくたびに、
思い出すたびに、
ぜひ、
そのことに、
想いを馳せてみてください。
ハートを開いてみてください。

きっと、きっと、
その『事実』を、
思い出していくことでしょう。

すこしずつ、
その『真実』が、
しみ込んでいくことでしょう。


たとえ、
思い出せなくったって、
大丈夫です。

『浄化』をすれば、
必ず、
思い出せるようになるはずです、
僕の経験上。

そして、
その場合でも、
思い出していくのは、
 「ゆっくり」「すこしずつ」
のはずです、
僕の経験上 ^^ 。

だから、
焦らなくて、慌てなくて、急がなくて、
大丈夫です。

いずれ、
誰でも、
自然と、
思い出していくことですから。

 「約束された道」
ですから。


そして、
この、
 「自分は、『大我』で『も』ある」
という認識は、

個人的には、
 「とってもポイントとなる観念である」
と、思っています。

 頭での理解にとって、
 とってもポイントとなる、
 とてもキーとなる、認識だ、
と、思っています。


さきほども、触れましたとおり、
わたしたちは、
普段、
 『どちらか』
の癖がついてしまっています。

ですが、
 「『どちらか』一方」
から見ただけでは、
うまく理解できないことが、
多いんですね。

それは、
とりもなおさず、
 「ここが、『どちらも』の世界」
だから、であり、
 「わたしたちが、『どちらも』の存在」
だから、なのだ、
と、思います。

なので、
 「『どちらも』、両方」
から見てみると、
見てあげると、
 「なるほど」
と、理解できることが、
多いんですね。


たとえば。

純粋に相手のことを想って、親切心から、
相手のために、やってあげたことを、
その相手が、とても嫌がり、迷惑がり、
挙げ句には、
 「なんで、わざわざ、嫌がることをするの?」
と、怒り出したりすることって、
まれにですが、ありますよね?

しかも、
そのしてあげたことを、
その相手が、過去に、
 「そうしてもらうのが、好き」
だなんて言っていた、
なんていうことも、ありますよね?

そんな場合には、
『小我』からだけ、見ていたのでは、
どうしても、
理由が分からなかったりします。
意味が分からなかったりします。
納得できなかったりします。


ところが、
これを、『大我』の視点から、見てみることができると、

たとえば、
 「自分は、『人を喜ばせることは、いいことだ』
  という『価値観』を持っている」
 「だから、あの人を喜ばせようとして、あんなことをしたんだ」
 「そして、喜んでくれていないことに、引っかかりを持っているんだ」
という、気づきになり、
そして、それが、
 「じゃぁ、その価値観を、浄化しよう」
という、流れになったり、とか、

あるいは、
 「自分は、相手の反応を気にしていて、
  相手の反応によって、自分の感情が、影響されてしまう」
という、しっかりとした気づきになったり、とか、

あるいは、
 「自分は、人はみな、自分と同じような考え方をするものだと思い込んでいる。
  だから、あの人の反応に、当惑し、憤慨したんだ」
 「でも、人はみな、本当に、本当に、違うんだ。
  そもそも、本当に、住んでる『宇宙』が、違うんだ」
という、気づきになったり、学びになったり、とか、
ということが、出てきます。

そして、
 「そのために、それらのことに『わたし』が気づけるようにするために、
  相手が、わざわざ、そう、演じてくれたんだ」
という認識が、持てるようになったります。

 「『自分』のことだけ」
という視点ではなく、
あるいは、
 「『自分』と『他人』とは、別個の、対立的な存在だ」
という視点でもなく、

 「『自分』と『他人』とは、同じ、大きな『一つ』だ」
 「『自分』も『相手』も、同じ、一つの『全体』だ」
という視点から『も』、
見ることができると、
納得できたり、理解できたり、したりします。


 「何か、よく、分からない」
 「理解できない」
 「腑に落ちない」
ということは、よくあると思いますが、

そういった場合は、
たいてい、
 「『どちらか』一方からのみ」見ている
から、
特に、
 「『小我』としての自分からしか」見ていない
から、
だから、
 「分からない」「理解できない」「腑に落ちない」
というケースが、
ほとんどだと思います、
僕の経験上 ^^ 。

そして、
だから、悩まれているんだと、思います、
『頭』で ...


この、
 「自分は、『大我』で『も』ある」
という視点を、
ぜひ、しっかりと、
取り込んでいただけると、
身体にしみ込ませていただけると、

 「頭での『理解』」
 「『腑に落ちる』という感覚」
が、
進んでいくのではないか、
増えていくのではないか、
と、思います。

 「『よく分からない』という、不安さ、落ち着きのなさ」
 「『意味が分からない』という、不快さ
 「『訳が分からない』という、怒り」
などが、
減っていくのではないか、
と、思います、
多少なりとも。

そして、
そうなると、
自然と、ただ、
 「では、不要なものについては、手放しましょうか」
と、
浄化に入っていく流れが、
よりスムーズに、訪れてくるものと思います。


 「よく分からなかったら、『大我』の視点から、見てみる」
 
どうぞ、ご参考になさってみてください。