2016年2月6日土曜日

『想い』の源


 「ああしてみたいなぁ」
 「こんなだったら、いいのにな」

 「あんなことになったら、どうしよう」
 「もし、そんなことになったら、いやだ」

 「あ、こうしてみようかな」
 「そうか、そうしたらいいんだ」

日々、生活している中で、
わたしたちには、

さまざまな、
希望・願望や、恐れ、
あるいは、
アイデアや、考え、思考、想念など、
いろいろな「想い」が、

湧いて来たり、湧き上がって来たり、
こみ上げて来たり、
ひらめいたり、思いついたり、
していますよね。

わたしたちは、
「その事実」をもって、

自分『が』、
そう、感じたり、考えたりしている、
と、認識しています。

表現を変えると、

それらの、
願望や、恐れ、アイデアなどの、想いは、

『外側』から、
与えられた、わけではなく、
『外側』から、
渡され、聞かされ、思わされた、わけではなく、

自分の『内側』から、
自然と、
湧いて来た、こみ上げて来た、ひらめいた、ものなので、

わたしたちは、
「その事実」をもって、

それらは、
 「『自分』から、出て来ている」
と、認識しています。

もちろん、
そのこと、そのものは、
そのとおりです。

それは、
『自分』から、出て来ています。

ですが、そのとき、
その、出て来ている「元」「根源」の部分は、

果たして、
ほんとうに、『自分』、なのでしょうか?


ここで使っている言葉を、
より、詳細に、厳密に、扱えば、

ここまでで、
 『自分』
と、表現してきたものは、

ふだん、わたしたちが、
これまでの、わたしたちが、

無意識にうちに、当然のものとして、
認識している、
 「いわゆる、『自分』」
の、ことであり、

それは、
 「この、自分という一つの『肉体』そのもの」
のことであり、

あるいは、
 「この、自分という一つの『肉体』に、付着し、
  この、自分という一つの『肉体』だけを、知覚し、認識している、
  意識部分」
のことです。

ここでは、
そのように、『自分』を、定義した上で、

で、
その、さまざまな想いが、出て来ている、「元」の部分は、

ほんとうに、その、
 『自分』
なのでしょうか?

『自分』の内側にあるから、
無意識のうちに、当然のこととして、
疑うこと無く、検証することも無く、
それを、そこを、その部分・その領域を、
 「『自分』である」
と、認識していますが、

それは、ほんとうに、
 『自分』
なのでしょうか?

そう、「証明」することは、できますか?
そう、「立証」することは、できますか?


『エゴ』の観点からいえば、
それは、そこは、
疑いも無く、
『自分』です。

そのこと、そのものは、
そのとおりです。

わたしたちが、これまで、
認識してきたとおり、です。

それを、否定する必要は、ありません。

ですが、
別の観点からいえば、
別の見方からいえば、
別の立場からすれば、

それは、そこは、
 「いわゆる、『自分』」
では、ありません。

別の立場、
たとえば、
 「いわゆる『エゴ』」から離れた立場
からすれば、

それは、そこは、
 「『自分』の中」
 「『自分』の内側」
では、あるけれども、

しかし、それは、
 『自分』
すなわち、
 「個人としての自分」
 「肉体としての自分」
 「エゴとしての自分」
では、ありません。

そのような立場、見解、認識からすれば、
それは、
そのような『自分』を超えた、
 「『大我』としての自分」
 「『内なる神』としての自分」
 「『集合意識』としての自分」
としての、「自分」、
なのです。

すなわち、
わたしたちは、
ふだん、これまで、

「自分の内側」から、湧き上がり、こみ上げ、
「自分の内側」で、ひらめき、思いついている、
から、

自分の感情や、意向、思考や、発想を、
 「『自分』が、想っている」
 「『自分』が、ひらめいている」
と、認識していますが、

このような見解からすれば、
それは、
 「『自分』が、想っている」
のではなく、
 「『自分』が、ひらめいている」
のでは、ありません。

 「『自分』を超えた、『大我』としての自分」が、想っている
のであり、
 「『自分』を超えた、『ハイヤーセルフ』としての自分」が、ひらめいている
のであり、

『自分』は、
 「『自分』が、想っている」と、思わされている
だけであり、
 「『自分』が、ひらめいている」と、思わされている
のです。

『自分』は、
ただ、そう、「想わされている」のであり、
ただ、そう、「ひらめかされている」のです。

『自分』が、しているわけではなく、
『自分』は、操作されているのです。
操られているのです。

あるいは、
『自分』は、
 「発想している」
わけではなく、

 「『大我』としての自分」
 「『ハイヤーセルフ』としての自分」
 「『集合意識』としての自分」
の想いを、

『自分』は、
 「受け取っている、キャッチしている、受信している」
だけに、過ぎないのです。


以前、わたしたちのところに、来てくださった方が、
次のようなご体験を、教えてくださいました。

その方曰く、
その方は、完全に、ご自分の『大我』(ハイヤーセルフ)と、
繋がっていらっしゃる、のだそうです。

で、
ある日、道を歩いていると、
前から、知人が歩いて来るのが、目に入りました。

そして、知人が、目の前まで、近づいてきた時、
突然、その知人の『大我』(ハイヤーセルフ)が現れ、
 「申し訳ないが、このセリフを、言ってくれませんか?」
と、
台本(シナリオ)を、見せてきたのだそうです。

どうやら、その知人は、
 「誰かから、そのようなことを言われる」
という体験が、必要だったようです。

そこで、その知人のハイヤーセルフは、
彼女に、頼んだのでした。

ところが、その台本を見てみると、
その内容が、
それを言えば、確実に、相手(知人)が怒るもの、だったので、
彼女は、はじめ、逡巡(しゅんじゅん)したそうです。

でも、ハイヤーセルフからの頼みだったので、
「必要なことであろうから」と、渋々ながら、承諾し、
セリフを、そのとおりに、読み上げたのだそうです。

そうすると、
予想どおり、相手(知人)は、怒り、行ってしまったそうですが、
『大我』からは、「ありがとう」というように頷かれた、そうです。

彼女は、日ごろ、このような類いのことを、
多くされていらっしゃる、とのことでした。

そして、そのとき、彼女は、
 「自分の役割は、果たすけれども、
  人間としては、誤解されるので、辛い」
と、涙ながらに、わたしたちに、語ってくれました。

さて、
この、彼女の教えてくれた事例では、

彼女は、
 「知人のハイヤーセルフから頼まれて、
  そして、自ら承諾のもと、『自分』が言った」
ということを、
知覚・認識できていました。

 「このアイデアの元は、彼女のハイヤーセルフである」
ということを、
知覚・認識していましたし、

 「そのセリフを、言う」
ということを、
彼女自身が、(渋々とはいえ)自分の意思で、行った、
ということを、
自覚していました。

普段から、
『大我』(ハイヤーセルフ)と繋がっている、彼女には、
『大我』の意識レベルでの、意図や想いを、
感じ、知覚・理解できているので、

 「『大我』の想いに従って、『自分』が行った」
ということが、
自覚・認識できていました。

ところが、
普段、そのような状態に無い、わたしたちは、
それが、
 「『大我』の想い・意図である」
ということが、
知覚・認識できません。

なので、わたしたちは、
 「『自分』の内側から、湧いてきた」
という事実を持って、
 「『自分が』、発想した」
 「『自分で』、そう思った」
 「『自分が』、そう感じた」
と、思っています。

ですが、
それを知覚できる人からすれば、
あるいは、そのような見解の人からすれば、

実は、それは、
 「『大我』の想い」
であり、
 「『ハイヤーセルフ』の意図」
なのです。

実は、
わたしたちが感じている、想いの、
「元」は、「源」は、

 『大我』『ハイヤーセルフ』
なのです。
 『内なる神』『集合意識』の領域
なのです。

 『自分』では、ない
のです。


わたしたちは、
 「元々の『神』では、『体験』できないこと、を、
  『体験』するために、『人間』をしている」
存在です。

そう、仮定してみてください。

そのとき、
「『体験』したいこと」を、体験するためには、

たとえば、
誰かに、何かを「される」体験、
そして、それによって、何かを感じる体験、をするためには、

 「誰かに、何かを『される』」
必要が、あります。

誰かに、何かを、『してもらわ』なければ、なりません。

あるいは、
誰かに、何かを「してしまう」体験、
そして、それによって、何かを感じる体験、をするためには、

 「誰かに、何かを『してしまう』」
必要が、あります。

誰かに、何かを、『し』なければ、なりません。

そのとき、
エゴとしての『自分』には、
 「このような『体験』がしたい」
ということについて、
自覚や、認識が、無いかもしれません。

しかし、それでも、
『大我』としての自分、
『ハイヤーセルフ』としての自分、
『集合意識』としての自分が、望んでいる、
 「このような『体験』をしたい」
という体験を、実体験するためのは、

エゴとしての『自分』は、
そのように、「動いてしまう」「動かされてしまう」
という必要が、あります。

そして、『ハイヤーセルフ』は、
『自分』が、そのように動くように、
『自分』に、仕向ける必要があります。

そのとき、
『自分』は、勝手に、動きますよね、
それを、
 「『自分』が、想った」
と、感じることによって ...


わたしたちは、
「したい『体験』」をするために、
「感じてみたい感情を『体験』」するために、

みんなで、一緒になって、
一つの
 「『人間』ドラマ」
を、繰り広げていて、

自分にとって必要な行動を、取ってみたり、
相手にとって必要な行動を、取ってみたり、
相手にとって必要な『役柄』を、演じてみたり、
ということを、
お互いに、し合っているのです。

「して『あげ合って』」いるのです。

『地球人間ゲーム』というのは、
(ある側面から見れば)
このような、ドラマなのです。

『筋書きのある』、舞台演劇なのです。

わたしたちは、
その『筋書き』に沿って、動いているのです。

『動かされている』のです。

いつでも、
『ハイヤーセルフ』『集合意識』の書いた、筋書きを、
読まされているのです、

その内容を、内側に、送り込まれることによって ...

それを、あたかも、まるで、
 「『自分』が、想った」
かのように、感じることによって ...


 「『自分』で、考え、思い、発想し、行動している」
それも、『事実』です。

 「『自分』で、生きている」
それも、
実感を伴った、リアリティーのある、『事実』です。

一つの見方からすれば、
それは、そのとおり、『事実』です。

ですが、
同時に、

 「『自分』は、思わされて、思いつかされ、行動させられている」
それも、また、『事実』です。

 「『自分』は、『生かされている』」
それも、また、
同時に、同様に、『事実』です。

どちらも、
『事実』です。

どちらも、
同時に、成立しています。


前稿「『自分』に、責任は無い」では、

 「『自分』は、『自分』の責任ではなく、
  『自分』の周りに居る人(々)の、所為(せい)だ」
ということを、
書きました。

同じ文脈で言えば、
本稿は、

 「『自分』は、『自分』の責任ではなく、
  『ハイヤーセルフ』『集合意識』の、所為(せい)だ」
ということを、
お伝えしたいと思い、書きました。

わたしたちは、みな、
『自分』であり、『自分』そのものです。

ですが、
同時に、
わたしたちは、みな、
『集合意識』の一部であり、『集合意識』そのものです。

 「何かを、してしまったこと」
 「何かを、できなかったこと」
 「何かで、あれなかったこと」
 「何かで、あれないこと」...

それを、
 「それは、『自分』の所為(せい)だ」
と思えば、
それは、そのとおり、ではありますが、

ですが、
同時に、まったく同様に、
それは、
 「『集合意識』の所為(せい)だ」
 「『宇宙』の所為(せい)だ」
と、いうことも、できます。

そう、認識することも、できます。
そう、みなすことも、できます。

『どちらも』、です。

そのとき、
「『自分』の所為だ」と、
『ご自分』を責めることも、できます。
それによって、辛く、苦しくなることも、できます。
それも、ご自由です。
それも、貴重な『体験』です。
おそらく、恋い焦がれて、したかった『体験』なのでしょう ^^ 。

ですが、
『どちらも』ですから、
『どちらでも、いい』のですから、

少なくとも、
『ご自分』を責める『必要性』は、
無いのでは、ないでしょうか?

『ご自分』が、『幸せ』に感じられる考え方を、
『ご自分』が、より『幸せ』になれる見解を、
採られても、いいのではないでしょうか?