2016年10月21日金曜日

津留さんお墓参り2016


 昨日、
 まるで、夏を思わせるような、
 気温と陽ざしの中、
 
 裕子さんといっしょに、
 津留さんのお墓参りに、
 行ってきました。
 
 いつものように、
 お花を供え、お線香をあげて、
 手を合わせてきました。
 
 
 そういえば、
 津留さんのお墓の前で、
 
  「安らかにお眠りください」
 とは、
 言ったことが、ないですね。
 
 津留さんが、
 「安らかではない」はずがないし、
 「眠っている」わけがない、
 と、
 思っているからですね ^^ 。
 
  「おかげさまで、このように生きています」
 と、
 感謝を伝えました。
 
 前稿のとおり、
 それを、『そこ』で、言う『必要』は、ないけれども、
 
 でも、
 『そこ』で言うと、
 『自分』の気持ちが、
 スッキリ・くっきりします。
 
 それをしに、
 行ってきました。
 
 
 お墓に行って、気にとまったことが、
 一つ、ありました。
 
 津留さんの墓石の、すぐ横に、
 たんぽぽの「頭花」(綿毛の集まったもの)が、
 ひとつ(一輪?)、ありました。
 
 それが、
 津留さんの墓石に、
 垂れかかるように、ありました。
 
 そのことが、
 気にとまりました。
 
 
 ちょうど、先週、
 個人セッションに、
 来てくださった方が、
 
 たんぽぽの「頭花」を使った、
 たとえ話を、
 聞かせてくださっていたのです。
 
 その内容は、
 
  「ふつう、人は、
   ティッシュを、一枚一枚、取るように、
   『ブロック』を、とっていくが、
   
   『覚醒状態』になると、
   たんぽぽの頭花を、ふーっとするように、
   一吹きで、一気に、
   『ブロック』が、とれてしまう」
 
 という、ものでした。
 
 インドの覚者さんの使われている、
 たとえ話のようです。
 
 それを、お聞きしたときに、
 
  「たしかに、
   そういうものなのだろうなぁ。
  
   そして、
   僕がお手伝いしているのは、
    『ティッシュを、一枚、一枚、取ること』
   だし、
  
   僕自身の浄化も、
    『ティッシュ、一枚一枚』
   だなぁ」
 
 と、思ったのです。
 
 ちょうど、
 そんなことを聞き・思った翌週に、
 そのような光景を目にしたので、
 
 そのことに、
 意識が向きました。
 
 そして、
  「面白いものだなぁ」
 と、
 感じました。
 
 
 津留さんは、
 一般的に言えば、
  『たんぽぽ』
 の状態だったでしょうね。
 
 そして、
 実際、
 多くの『ブロック』を、
 
 たんぽぽの種を飛ばすように、
 ふーっと、
 一息で、飛ばしてしまったのでしょうね。
 
 そんなことを、
 象徴しているように、感じられました。
 
 
 しかし、
 同時に、
 
 綿毛がしっかりと残っていた、
 津留さんのお墓の横の、
 たんぽぽの頭花を、目にして、
 
  津留さんといえども、
  まだまだ、手放せていない『ブロック』だらけだった
 
 ということを、
 象徴しているようにも、感じられました。
 
 このことは、実際、
 津留さん自身が、
 講演会で、言っていたことですし、
 
 冊子『浄化の旅』には、
 晩年、日々、浄化を続けていた様子が、
 書かれています。
 
  「『ブロック』だらけで、いいじゃない。
   『人間』だもの」
 
 そう、
 津留さんが言っているようにも、感じられました。
 
 
 その後、
 墓参りを済ませ、
 墓地を後にしたとき、
 
 もう一つ、
 考えが浮かびました。
 
 それは、
 比較的、リアルに、
 津留さんが語りかけてくれているような、
 感じがしました。
 
  「でもさ、
   『ふー』って、吹き飛ばしちゃっても、
   いいんだよ ^^ 」
 
 そんな声が、
 聞こえるかのような、感覚でした。