2014年7月9日水曜日

たとえば、やさしさとは


 『無条件の愛』

 「無条件の愛」この言葉ほど私の魂をふるわせる言葉はありません。
 神は光であると伝えられました。
 しかし私にとってそれは単なる説明でしかありませんでした。
 そこに感動がなかったからです。
 しかし神とは「無条件の愛」であると伝えられたときには、
 これこそ我が目指すゴールであると感じました。
  
   津留晃一 メッセージ集 『無条件の愛』より


津留さんのメッセージ集の5番目にある『無条件の愛』から、
引用しました。

おそらく、このブログを読んでくださっている方、全員が、
すでに読まれているメッセージだと思います。

 「そのとおりだ」
多くの方が、気に入って、お読みになっておられることでしょう。


 『無条件』...

 「条件なし」に
あるいは、
 「制限・限定なし」に
ということですね。

表現を変えれば、
 「そのまま」で
 「あるがまま」で
ということですよね。

 「『そのままの自分』を受け入れてもらう」
 「『そのままのあなた』を愛する」

そんな言葉に、心躍らせる方も多いのではないでしょうか。

 「ただ『そのまま』を愛し、ただ『そのまま』で愛される」

そんな言葉に、魂をふるわせられる方も多いのではないでしょうか。


ところが、
人は、
『そのまま』の相手を、愛せません。
『そのまま』の相手を、受け入れられません。

そして、
『そのまま』の相手を、愛することができない、受け入れられない『自分』を、
とがめてしまいます。

もうすでに、
愛することが、受け入れることができないことで、
十分に、苦しんでいるというのに、
さらに、そんな自分をとがめ、否定することで、
さらに、一層、苦しみます。

そんな
 『苦しさ・つらさの無限ループ』
に入り込み、
悩まれている方も、多いことでしょう。


では、
なぜ、人は、『そのまま』の相手を、愛し、受け入れることができないのでしょうか?

それは、
津留さんの説明によれば、
 『そのまま』の相手では、
 自分の中の『エネルギーブロック』が刺激されて、
 自分が苦しくて、つらくて、しかたないから。
ということです。

 『そのまま』の相手の中に有る、『そのまま』の相手が持っている、「ある要素」が、
 自分の中に有る、ある『エネルギーブロック』を刺激して来て、
 その作用の結果、自分が苦しくて、つらくて、しかたないから、
 どうしても、『そのまま』の相手を良しとできない。

頭では、十分に分かっているけれど、
でも、
 「恋人なら、こうして欲しい」
 「夫なら、こうして当然でしょ」
 「妻なんだら、そうすべきだろ」
 「人として、それは、いけないでしょ」
 「そんなお金の使い方したら、足りなくなるよ」
 「そんな言い方、ないでしょ」
そんな想いとともに、
強い苦しみが、どうしても、湧き上がってきます。
押さえきれない苦しみが、どうしても、こみ上げてきます。


そして、
これ、
 「どうしても」
上がってくるんですね。

 「頭での理解」や、
あるいは、
 「意思の力」では、
どれだけ頑張っても、
どう踏ん張っても、
ダメなんですね。

これが、『エネルギーブロック』の作用なんですね。

津留さんは、これを、
 「手で持っている物が、手を離せば、落下するように」
って、説明していました。

つまり、地上における物理法則のように、
 「自然に起こること」であり、
 「当然のこと」であり、
 「仕方のないこと」なのだ、
って、言ってました。

『エネルギーブロック』が有る以上、
それは、仕方のないことなんですね。

では、
どうすればいいのか?

もう、ご存知のとおり、
 『浄化』
ですね。

もし、どうにかしたいのであれば、
それは、『浄化』すれば、済みます。

あるいは、『浄化』しかないと思います、
もし、「どうにかしたい」のであれば。


あるいは、
『そのまま』の相手を受け入れられない理由は、
こんなふうにも、説明できるかもしれません。

過去記事「ハートの光源」でお伝えしたような表現ですが、
 『そのまま』の相手を受け入れて『あげる』だけの余裕が、
 自分に無いから。

 自分の内側から放たれる『光』『愛』『エネルギー』を、
 『エネルギーブロック』がふさいでしまっていて、十分に感じられないので、
 自分の中のそれらの量が、十分ではなくて、
 受け入れて『あげる』余裕がない。
ということです。

たとえば、
 自分を、きちんと保つことに精一杯で、
 自由な状態の相手を、受け入れる余裕がない
というようなことです。

なので、
この場合も、同様に、
 「『エネルギーブロック』があるから」
『そのまま』の相手を受け入れて『あげる』ことができないのであり、

そして、同様に、
『そのまま』の相手を受け入れるには、
 『浄化』
をする、ということになります。


説明としては、どちらにしても、
このように、
私たちは、『そのまま』の相手を愛することができません。

ところが、
これを相手方から見た場合、受け取る側から見た場合、
この
 「『そのまま』の自分を受け入れ、愛してほしい」
という欲求は、とても根源的で、深いものです。
とても深く、とても強いものです。

前の記事「最大のパラドックス」でも書きましたとおり、
私たちは、みな、その最も深いところで、根源的なところで、
 『欠落感』『欠乏感』『不完全だという想い』
を、握りしめています。

それゆえに、
私たちは、みな、その本質的な部分で、
 「自分は、欠点がある・完全ではない、という恐れ・怖さを、どうにかしたい」
 「その欠落を、欠乏を、埋め合わせたい」
 「満たされたい」
という想いを、欲求を、抱えています。

そして、
その本質的な想い・欲求を、言葉で表せば、
究極的には、
 「この自分で、OKだ、と認められたい」
 「そのままの、あるがままの、自分を、ただ、認め、受け入れられたい」
というところに行き着くと思います。

個人セッションをさせていただいていても、
 「結局、最終的には、そこですね」
というケースが、見受けられます。


そう考えると、
 「ただ、認め、受け入れる」
っていうのは、
 する側にとっては、難しく、
でも、
 してもらう側にとっては、とても大切で、とても貴重
ですね。

私たちは、日ごろ、
 「・・・してあげられなかった」
と、具体的な行動をすることができなかった自分を責め、
そんな自分を、「やさしくない」と責めます。

確かに、
人は、表面的には、
 「・・・をしてほしい」
 「・・・してくれ」
と想っていますし、そう言います。

でも、
その最も深い部分では、
そんな『何か』をしてほしい、というよりも、望んでいるものがあります。

そんな想いを満たしてあげること。

 「ただ、そこに、ともに、居てあげること」
 
これこそ、
 人が、実は、一番求めているものであり、必要としているものであり、
そして、
 それを、してあげられることこそが、実は、真の『やさしさ』なのではないか。

 「『そのまま』を認め、受け入れる」
ということの難しさを感じるにあたり、
そんなことを想いました。


 「具体的に、『何か』をしてあげる」
ということは、
もちろん、それはそれで、とても大切なことですが、

でもそれは、
いわば、二次的な問題であり、
あるいは、妻がよく使う表現を借りれば『オプション』のようなものであり、

 ただ、そのままの相手を、
 否定もせず、意見もせず、要求もせず、
 ただ、ともに居る、ただ、寄り添う...

 そんなものが、
 深い意味での、本当の『やさしさ』なのではないか。

そんなふうに想っています。

 夫婦関係や、恋人関係、
 あるいは、親子関係。
 親密で、深い、人間関係においては、
 まさに、そんなことこそ、そんな認識こそ、大切なのではないか。

そんなことを、想ったりします。

もちろん、それは、
 「言うは易し、行うは ... 」
なんですが ... ^^