2014年10月10日金曜日

赤いスイトピー


今日、
個人セッションの最中、
娘を、幼稚園に迎えに行くために、
席を離れました。

表に出ると、
そこは、
晴れて、柔らかな陽射しが垂れ降り、
心地のよい、爽やかな、空気で満ちていました。

そんな中、
道を歩いていると、

あるメロディーが、自然と、
自分の口から、こぼれ出ていました。

 「赤いスイトピー」
でした。

イントロから、
つまづくこと無く、
途切れること無く、
流れ出ていく、メロディー。

自分で言うのも、何なんですが、
滑らかに、
伸びやかに、
流れ出し、響き渡る、
その音色に、

何のためらいも無く、
何の戸惑いも無く、
何の抑えも無く、
ただ、あふれ出ていく、
その音色に、

自分のハートが、
柔らかく、温かく、
極めて細かく振動する様子を感じ、

目は、
温かく、心地よく、
潤ってきました。

その曲の、素晴らしさを、
はじめて、
ただ、純粋に、
味わっていました。

こころから、
純粋に、
そのバイブレーションそのものを、
味わっていました。


松田聖子さんは、
僕にとっては、
少々年上で、

僕自身の世代にとっては、
「ど真ん中」なアイドルではありませんが、

それでも、
彼女が、はじめて、世間一般に登場したときから、
リアルタイムで、見ていましたし、
その活躍ぶりは、
はっきりと、記憶しています。

そんな世代の僕にとって、
『松田聖子』という人物は、
ある意味で、
『特別な人』の、一人です。

おそらく、
同世代の人々の、ほとんどが、
彼女のことを、
 『好き』か『嫌い』
かで、

あるいは、
『かつては』、
 『好き』か『嫌い』のどちらかだった
で、

 『知らない』とか『どっちでもいい』
という人は、
ほとんどいないのではないか、
と、思います。

少なくとも、
男性として、
しかも、
多感な時期に、
彼女が、『トップアイドル』として、
登場し、君臨していた、
という経験を持つ、僕らの世代の『男子 ^^ 』は、みな、

彼女のことは、
 『好き』か『嫌い』
か、
どちらかだった、と、思います。

そういう意味で、
特別な人、です。


ところで、
僕自身は、
先の話と矛盾するようですが、
本当のところは、
特に、好きでも嫌いでもなかった、のですが ^^; 、

ただ、
これまた、よくあることだと、思いますが、
多感な時期の『男子』として、

 「『好き』あるいは『大好き』でないものは
  すべて、『すっごく嫌い』」
みたいな、
なんか、それを『カッコいい』と誤解したような、
そんなスタンスを、とっていましたので ^^; 、

それゆえに、
基本的には、彼女のことは、『嫌い』でした。

というか、
より正確に言えば、
 「僕は、彼女のことが、『嫌い』なんだ」
と、
思い込んでいました。

あるいは、
そう、記憶していました。

あるいは、
『そういう記憶』を、持っていました。

なので、
つい最近まで、すっかり、
 「僕は、彼女のことが、『嫌い』」
だと、思っていました。


ところが、
比較的最近、
彼女の、当時の歌を、耳にする機会があって、

それとほぼ同時に、
当時の自分のことを、深く振り返る機会があって、

実は、
彼女の『良さ(可愛らしさ・美しさ、歌の上手さ)』や、
彼女の歌の『良さ(楽曲の良さ、歌の上手さ)』を、
当時においても、『感じて』は、いながら、

でも、
『カッコつけるため』に、というか、
友人・周囲から『バカにされないため』『からかわれないため』に、
彼女のことを『嫌っていた』んだ、
ということを、
思い出しました。

そんなことを、していたことを、
思い出しました。


そんなことを、思い出した後の、
今日の、午後。

なぜ、
そのメロディーが、
自分の口をついて出たのか、については、
まったく、
分かりません。
見当もつきません。

ただ、
流れ出て来た、その音を聞き、

温かく、柔らかな、空気を伝って、響き渡る、
そのメロディーを耳にして、

まず、
 『嫌い』な歌手の曲ゆえに、
 なんか、『嫌い』だ
と、認識していた曲を、

 自分が、
 何の想いも無く、
 ただ、
 吹いている
ということに、
気づきました。

何の想いも無く、
ただ、吹いているときの、
その、口笛の、音色は、

自分で言うのも、不思議ですが、
とても美しく、
伸びやかに、
細やかに、滑らかに、
響き渡っていました。

そして、
その音を聞いて、

そのメロディーの美しさに、
ただ、
感じ入っていました。

そのメロディーが、
自分の口から、送り出されていることに、
宇宙に向かって、解き放たれていることに、
誇りすら、感じていました。

それは、
ただ、美しく、
ただ、細やかでした。

幼稚園に着くまでの道中、
人目を気にせず、
ただ、吹き続けていました。


私たちは、
普段、
自分で、勝手に、

さまざまな『想い』を、
さまざまな『考え』を、
『善し・悪し』を、
『好き・嫌い』を、

物事に、くっつけて、
見ています、
とらえています、
認識しています。

その結果、
その物事を、
その、あるがままに、
そのもの、そのままに、

見て、とらえて、認識する、
ということが、
できていません。

例えば、
私たちは、
誰か、人に、はじめて会うと、
必ず、
 『第一印象』
というものを、持ちます。

その内容が、
ネガティブなものであれ、ポジティブなものであれ、

あるいは、
それが、後に、
変わることがあるにしろ、
変わらないままであるにしろ、

いずれにせよ、
私たちは、
必ず、
 『印象』
というものを、持ちます。

『印象』『感じ』『感覚』を、
人に、物に、現象に、
付加して、持ちます。
そして、
持ち続けます。

決して、
それ、そのものを、
そのまま、それだけで、
見る、認識する、
ということが、ありません。

まず、
そのことを、
そうしているという事実を、
認識すると、

その、付加していた、くっつけていた、
 『印象』『感じ』『感覚』『想い』『考え』
を、
取り外すことができます。
できるようになります。

そうすると、
物事を、あるがままに、そのままに、
認識することができるようになります。

僕の場合、
 『嫌いだ』と、認識していた歌手の歌を、
 『あるがまま』に、『そのまま』に、
 口笛で、吹いてみたら、

 その美しさたるや、
 宇宙をふるわすほどのものであった ...

そんな、
美しくも、こ恥ずかしい体験を、

秋の、爽やかな晴れ間に、
 「全体たる『自分』」
から、
プレゼントしてもらいました。





( 追伸:
  この記事を、アップした後、気になって、ググってみたら、
  作曲は、松任谷由実さん、なんですね。
  なんか、へんに、納得してしまいました ^^ )