2014年10月16日木曜日

ライトワーク


  「無条件の愛」この言葉ほど私の魂をふるわせる言葉はありません。
  神は光であると伝えられました。
  しかし私にとってそれは単なる説明でしかありませんでした。
  そこに感動がなかったからです。
  しかし神とは「無条件の愛」であると伝えられたときには、
  これこそ我が目指すゴールであると感じました。
 
 津留晃一メッセージ集『新人類の覚醒進化プラグラム』「無条件の愛


津留さんのメッセージ集の、5番目の、「無条件の愛」の中に、
こんな文章が、出てきますね。

僕の場合には、
残念ながら、「無条件の愛」という言葉に、
「魂をふるわせ」られるほどの、想いは、やって来ませんし、

そこまでに、「魂をふるわせる」ほどの言葉は、
持ち合わせていない、のですが、

それに近い言葉、
 はじめて耳にしたときから
 いままで、変わらずに、常に
 ハートを、とても細かく、震えさせる言葉
そんなものが、あります。

それは、
 『ライトワーク(light work)』
という、言葉です。

おそらく、
確たる定義なども無くて、
人それぞれに、イメージして、
人それぞれに、使っている言葉だと、は、思いますが、

 「光のお仕事」
 「光を放つ、『灯台』となる」
 「その光を、みなさんにお届けする」
 
だいたい、
そんな感じの意味で、広く使われている言葉、
だと、思います。


ところで、
英語の " light " には、
 「光(ひかり)」
という、名詞の意味があり、
同じ流れで、
 「明るい」
という、形容詞の意味がありますね。

と、同時に、
形容詞としては、もう一つ、
 「軽い」
という、意味もあります。

 " lighten "
という、動詞にしていただければ、
とても分かりやすいのですが、

それには、
 「明るくする」
という意味と、
 「軽くする」
という、意味があります。

つまり、
先の、『ライトワーク』というのは、

 「人々を、明るくする」
という意味であり、
かつ、
 「人々を、軽くする」
という意味であると、
僕は、とらえています。

 『ライトワーカー』
という、言葉を使えば、
それは、

 「人々を、明るくする人」
であり、
 「人々を、軽くする人」
である、
と、思います。

この言葉には、
僕は、
心を、ふるわされます。


前回の、記事「最驚のパラドックス」でも、
後半に、記述しましたが、

僕自身の体験として、
『浄化』をすると、そのたびに、
 「軽くなった」「楽になった」「スッキリした」
という実感が、たいてい、ありますし、
ときおりですが、
 「見えている世界が、明るくなる」「くっきり見えるようになる」
ということが、あります。
 
個人セッションや、浄化実践講習会で、
浄化のお手伝いを、していても、

浄化をされた後に、
 「あぁ、楽になりました!」「軽くなりました」
という、ご感想をいただいたり、

 「あぁ、視界が、明るくなりました」
 「目の前が、明るくなりました」
という体感を、聞かせていただいたりします。

また、
このように、日本語で、
「軽い」と「明るい」を、
わざわざ、明確に、区別しなくても、

こころが「軽く」なった人は、
性格的に「明るく」なりますから、

英語のように、
どちらも、同じようなものととらえても、
構わないですよね。

いずれにせよ、
『浄化』とは、

このように、まさに、
 「軽くする」
行為であり、
 「明るくする」
行為です。

『浄化』とは、
まさに、
 『ライトワーク』
そのものなのです。


いま、
振り返って、考えてみると、

以前から、
 『ライトワーク』
という言葉に、
特別な想いを持ち、感じていたのは、

このようなこと(浄化のお手伝い)を、させていただく、
「自分の『未来』」というものを、
「『自分』の中の、どこかの部分」が、
はっきりと、見据え、認識していたから、
なのかも、しれません。


さて、
僕と同じように、
 『ライトワーク』
という言葉に、特別な想いをお持ちな方、

あるいは、
その他の、
 『奉仕』『貢献』『他者への役立ち』
といった言葉に、特別な想いをお持ちな方、

そういった方々は、
この時代には、
とても多くいらっしゃることと、思います。

こころ優しい、
「『宇宙』の魂」そのままな、
素敵な方々に、
これまでに、
何名にも、出会ってきました。

津留さん交流会や、浄化実践講習会、そして個人セッションにも、
そういった方々が、
たくさん、いらしてくださいました。

なので、
このブログを、この記事を、
縁あってご覧くださってる、みなさまの中にも、
そういった方々が、多くいらっしゃることと、推測します。

そういった方々は、
もうすでに、これまでにも、
その『任務』を果たされておいでのことと思いますし、

もし、「今は、まだ」だとしても、
放っておいても、
いずれかの時点においては、
そんな、自らの『役割』を、
全身全霊で、果たされておられることでしょう。

そのご活躍、今後のご活躍、
こころより、祝福させていただきますとともに、
こころより、感謝申し上げます。


そのような方々には、
特段、お伝えすべきことも無い、
とも、思うのですが、

一方で、
自分自身の経験から、気づいたことを、
あえて、ここで、
お伝えするとすれば、
次のようなことになります。

そのような、
周りの方々への『貢献』『役立ち』を意識される方は、

一般的な傾向として、
どうしても、
 「『自分』のことを、軽視」し
 「『他人』のことを、重視」する
傾向が、おありだと、思います。

どうしても、
 「自分のことは、さておき」
 「他人のことを、する」
という傾向に、なりがちだと、思います。

 「そうすべきだ」
という想いから、
どうしても、そのような傾向になられる方も、いらっしゃるでしょうし、

そのような、想念・価値観は、無いけれど、
自然と、そのような行動をお取りの方も、いらっしゃるでしょう。

そうすることに、
ストレスがある方も、ストレスの少ない方も、いらっしゃるでしょうが、
いずれにせよ、
 「『自分』はさておき、『他人』を」
という行動様式を、お持ちのことと、思います。


究極的には、
 「『自分』のことをする」
ということと、
 「『他人』のことをする」
ということには、
差は、ありません。

どちらも、同じことです。

『自分』も、『他人』も、
同じだからです。

『自分』も、『他人』も、
無いからです。

あるいは、
 「『与えるもの』が『受け取るもの』」
だからです。


ですが、
それは、あくまでも、
 「『究極的』には」
です。

基本的には、
現在の、私たちの状況的では、
 「『自分』のことをする」
ということと、
 「『他人』のことをする」
ということとは、
『まったく同じ』というわけではありませんし、

そんな現状では、
ぜひ、
 「『自分』のことをする」
ということを、
疎(おろそ)かには、なさらずに、いただきたいのです。

 「『自分』のことに、しっかりと、責任を持つ」
 「『自分』のことを、しっかりと、大切にする」
ということを、なさった上で、
 「『他人』のことを、大切に」
なさって、いただきたいのです。

 「私は、『自分』のことを、救います」
という、津留さんの言葉を、
ぜひ、思い出して、
そして、
ぜひ、意識し続けて、いただきたいのです。


 「『他人』を救うことが、ひいては、『自分』を救うことになる」
という構造は、
真実だと、思います。

さきほども、述べたとおり、
 「『自分』も、『他人』も、同じ」
なので、
あるいは、
 「『与えるもの』が『受け取るもの』」
なので、

 「『他人』を救うことが、ひいては、『自分』を救うことになる」
というのは、そのとおりだと思いますが、

この方法は、
 「『エゴ』の残った、『エゴ』がしっかりと存在している
  現状の、私たちには、
  かなり、ハードルが高い」
方法です。

いわば、
 『荒行』
です。

効果が出たときには、
効果を実感できたときには、
そのときには、
その効果は、絶大だと、思いますが、

そこに至るまでに、
かなり強固な意志を要しますし、
かなりのストレスに打ち勝つ必要があることと、思います。


一方、
 「まず、『自分』を救う」
 「とりあえず、『自分』を幸せにする」
ということに専念する、
というアプローチは、

 「自分のことに、責任を持つ」
という、態度・認識を、明らかにするものであり、
 「自分が、幸せかどうかは、自分の責任であり、自分次第だ」
という、
『外側の世界』ではなく、『内側の世界』に、意識を向ける・向け続ける、
という態度であり、

そして、
 「自分は、自分の、『救世主』だ」
ということを、明確に認識した態度です。

それは、
 「自分のことは、自分で、満たす」
というアプローチであり、

 「自分のことは、自分で、明るくする、光らせる、輝かせる」
というアプローチです。

 「周りの人を、明るくするために、
  直接、周りの人々を、光らせる」
というアプローチではなく、

 「周りの人を、明るくするために、
  まず、自分が、光り、輝き、
  その光で、間接的に、周りの人々を、明るくする。
  その光を、周りの人々に、配り、届ける」
というアプローチです。

自らが、光り輝いていれば、
あまり意図しなくても、
その光は、周りの人々に、自然と、届くものです。

それは、いわば、
 『太陽方式』
とも呼べるような、方法です。

あるいは、
自分が満たされていれば、
自然と、その溢(あふ)れ出るものを、
他人に、分け与えることができます。

自分が不足している状態で、
他人に分け与えることは、
強固な意志力と、強い抗ストレス力(りょく)を要しますし、

そもそも、
自分でも不足しているわけですから、
他人に分け与えることができたとしても、
その量は、極めて限られたものとなることでしょう。
その量に限界があることは、自ずと、明らかです。


 『ライトワーク』
に、ご興味がおありの方こそ、
そんな方々ほど、こそ、

 「『自分』を、明るくすること」
 「『自分』を、軽くすること」
に、
専念なさっていただければと、思います。

誰でもない、ご『自分』の幸せに、責任を持っていただければ、
と、思います。

そうすることが、
そうすることこそが、
結果として、
 「『他人』を、明るくすること」
 「『他人』を、軽くすること」
に、つながります。

結果として、
そんな方法・アプローチこそが、
近道だったりします、
この、
 『パラドックスな世界』
においては。

そして、
そのときには、
そんなことが実現できたときには、

 「『自分』も、『他人』も含めた、『全体』」が、
 「『自分』も無い、『他人』も無い、『全体』」が、
明るく、軽く、なっていることと、思います。


偉そうなこと、生意気なことを、
申し上げられるような存在ではないことは、
重々承知はしていますが、

それでも、
ここ最近、
 「とにかく、『自分自身』の浄化」
に、
努めて来た結果、
専念して来た結果、

多くの方の浄化に、立ち会うことができ、
そして、
とてもありがたいことに、
多くの方々から、
 「軽くなりました」「楽になりました」
と、
感謝の言葉をいただけるようになって来て、

そんな認識を、
深め、強めています。