2014年10月6日月曜日

『考え』てすら、いない


いまからお伝えする内容を、
このブログに書いて、お伝えするということに、
いったい、どのような『意味』があるのか、

「『人間意識』としての ひで 」には、
よく、分からないのですが、

どうしても、
何度も何度も、
この内容のことが、頭に浮かんでくるので、
おそらく、
お伝えすることに、何か『意味』があるのだと思います。

そこで、
ここに、素直に、『降伏』して、
ここで、そのまま、書かせていただくことにしました。

なので、今回の記事について、
 「で、何を言いたいのか?」
とか、
 「だから、何なのか?」
とか、
 「で、どうしろと言うのか?」
とか、
その手のことを言われたとしても、

すみません、
僕には、
さっぱり、
分かりません。

なので、今回は、
どうぞ、その辺りをご了承の上、
お読みいただければと思います。

といっても、
今回に限らず、
僕の書いてることって、
基本的には、いつも、そうなんですけどね ^^; 。


さて。

「思考の限界」に気がつくと、
「思考のデメリット面」に気がつくと、
あるいは、
 「もう、さんざん、『考える』ことは、やり倒した。
  もう十分だ!」
と、認識されると、

 「もう、『考える』のは、やめよう」
 「『思考』から、離れよう」
と、
思われることと、思います。

 「思考を止る」
 「思考から離れる」
そんな決意をなさることと、思います。


で、
そのとき、その後、
では、どんな状態に進まれるか、
というと、

実は、
二つの可能性があると思います。


一つは、

「思考」を止め、
「思考」から離れ、
「思考をしている自分」から離れ、

そして、
「それらから離れている自分」に意識を合わせている状態、
「それらを見張っている自分」に意識を合わせている状態、
「それらを観察している自分」に意識を合わせている状態、
そんな状態になられることと思います。

 「『感じている』自分」
 「『呼吸をしている』自分」
 「『観察者』としての自分」
 そんな自分である、という状態、
あるいは、
 そんな自分に意識を合わせている状態、
とも、表現できるかもしれません。

いずれにせよ、
そこでは、もう、
思考から離れています。
思考は止まっています。
思考はしていません。

そんな状態です。

「意図していた状態」です。

あるいは、
いわば、
 「進むべき道」
です、
あえて、言えば。


一方、
もう一つの、可能性ある状態は、

 「考えること」
 「考えている自分」
からは、離れています。

 「考えること」
 「考えている自分」
そんなこと、そんな状態、そんな自分に、
もう、辟易(へきえき)としています。

なので、
 「『意識して』考えること」
は、止めています。

あるいは、
 「『考えている』自分」
からは、離れています。

ところが。

 『意識すること』
そのものからも、離れてしまっています。

 「『意識』の状態」
 「『意識』の在り処」
 「『意識』の向いている方向・場所」
の把握・認識そのものも、
止めてしまっています。

その結果、

たしかに、
 「考えよう」
とすることは、しなくなっていますが、

あるいは、
 「『意識して』考える」
ということは、しなくなっていますが、

ところが、
 「では、自分は、いま、何をしているのか?」
ということ、そのものを、
しっかりと、意識・把握することも、
なくなっています。

それは、
『無意識』な、状態です。
『無自覚』な、状態です。

そして、
その状態で、
しかし、
『思考』は、動いています。
『思考』は、活動しています。

しかも、
活発に、活動しています。

抑えの外れた『思考』は、
解き放たれた『思考』は、
より活発に、
より奔放(ほんぽう)に、
駆け巡ります。
飛び回ります。

まるで、
手綱を手放した、馬のように ...
リードの外れた、犬のように ...
糸の切れた、凧(たこ)のように ...

そして、
そのことに、気づけていません。
そのことを、意識できていません。
そのことを、自覚できていません。

そんな状態です。

「意図していたのとは、違う状態」です。

あるいは、
いわば、
 「『逆戻り』の状態」
です、
あえて、言えば ...


『思考』に辟易とした結果、
 「もう、『思考』は、いい」
と、認識・決意しは、したけれど、

そこで、
ちょっとした、勘違いによって、

あるいは、
そこで、
疲れてしまっていて、
もう一歩前進する意欲が無くなってしまっていて、

いわば、
「一歩進む」のではなく、
「一歩後退」してしまった状態です、
あえて、言えば ...


その状態においては、
 「考えていない」
のでは、ありません。

いえ、
むしろ、逆に、
 「最も活発に、最も究極的に、『考えている』」
状態です。

そして、
あえて表現すれば、
それは、
 「『考え』てすら、いない」
状態なのです。

そんな状態のときに、
 「じゃぁ、なんで、そんなこと言ったの?」
 「どうして、そうしたの?」
と問われたら、

おそらく、
何も答えられないことでしょう。

 『思考』に乗っ取られ
 『思考』に自動操縦されてしまっている
とも言える状態では、

 「どうして、そうしたのか?」
を、
自覚することは、
おそらく、できないと思います。
気づけないと、思います。


一方、
逆に、
 「『思考』を監視している」状態
の自分であれば、

あるいは、
 「『意識的』な自分」
であれば、

『理由』を尋ねられたとしても、
その『理由』を、
明確に、答えることができるでしょう。

その『理由』そのものは、
もしかしたら、
『思考』の結果ではなく、

 「ふと、そう思ったから。感じたから。」
ということによって、
採用したものかもしれません。

その場合には、
その『理由』が、なぜ、良いのか、とか、
その『理由』についての、合理的な説明をすることは、
もしかしたら、できないかもしれません。

でも、
 「どうして、その『理由』を採用したのか?」
については、
明確に、把握できています。

 「その『理由』が湧いて来た」
 「そして、それを良いと『感じた』から」
ということを、
はっきりと、認識できているからです。



改めて、
いま、この文章を読み返してみて、
やはり、
 「で、何を言いたいのか?」
 「何を伝えたいのか?」
は、

僕には、
さっぱり、
分かりませんでした。

縁あって、この文章を目にされた、みなさまには、
『ただ』、
お読みいただければ、と、思います。

それにしても、
これは、自分で書いた文章ながら、
 「『自分』で書いた文章」ではない
のでしょうか?

 「自分の『エゴ意識』を、十二分に使って、書いた」
という自覚が、満タンに、あるので、
そんなことは無い、と、想うのですが ...