2015年1月30日金曜日

冬場のお風呂


大寒の候、
みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

今日は、ここ、千葉県市川市でも、
雪が降り、寒い一日になりました。

そんな、寒さ厳しい、この時期は、
お風呂に入るのが、
ことのほか、気持ちいいですよね! ^^

一人暮らしをされていたり、
お仕事が忙しくて、帰宅が遅かったりする方は、
ふだん、あまり、
湯船につかったりは、しないかもしれませんが、

ですが、
もし、そんな機会がある場合には、
ぜひ、「その、気持ちよさ」を、
しっかりと、じっくりと、
感じ、味わってみてください。


「『感じる』という行為」は、
『考える』という行為と、対極にあるものであり、

「『感じる』という行為」の訓練は、
『思考』から離れ、『思考』を観察するうえで、
とても助けになります。

そして、また、
「『感じる』という行為」は、
『浄化』において、とても重要な手段であり、

「『感じる』という能力」は、
『浄化』のプロセスにおいて、とても助けになります。

ですから、
ふだんから、「『感じる』という行為」を、
意識をして、頻繁(ひんぱん)に、行っていただきたいのですが、

とくに、
お風呂に入るときには、湯船につかるときには、
ぜひ、「その、気持ちよさ」を、
じっくりと、しっかりと、深く、細かく、
感じ、観察してみてください。


僕の場合、
とくに、この寒い時期に、熱めのお湯に入ったときには、

最初、お湯の中に、身を浸した瞬間は、
動きが大きく、体表に感じる感覚が多くて、
感覚を、細かく、しっかりとは、感じ取ることができません。

ですが、そのあと、
身体を浴槽内に落ち着かせて、1秒か2秒たったとき、
そこで、怒濤のような気持ちよさが、
全身に、全身各所から、駆け巡り、駆け上がって来ます。

口からは、
 「あぁ〜〜〜〜」
 「気持ちい〜い〜っ!」
という声が、
思わず、無意識のうちに、漏れてしまっています ^^ 。

全身を包み込む、熱さ・温かさ。
液体がもたらす、ほどよい・ここちよい、圧力。
それらによって、身体が、細胞が、ゆるみ・伸びるような感覚 ...

それらを、しばし、感じていると、
続いて、意識は、手足の指先の、軽いしびれに、向かいます。

寒さによって、もたらされた、
軽く、細かい、そのしびれが、
お湯の熱さ・温かさによって、
徐々に、徐々に、細か〜く、淡〜く、薄〜くなって行き、
そして、さらに軽〜く、細か〜くなって、消滅していきます。

そして、そのときには、
全身が、完全に、くつろぎ、伸びきっています。

このあたりの、数秒間、
全身で、全霊で、
その、ここちよさ・気持ちよさを、感じています。

みなさんも、ぜひ、
そんな、気持ちのよさの感覚を、
しっかりと、じっくりと、
深く、かつ、細かく、
味わうように、なさってください。

できれば、それを、
習慣づけてみてください。


さて、
この、お風呂に入ったときに感じる、
この、「気持ちよさ」ですが、

あれって、
 とっても、細やかで、柔らかで、安らかで、
 しかも、濃密で、圧倒的な量、
では、ありませんか?

あの、圧倒的で、濃密で、包み込むような、
あの、「ここちよさ」を、
あの、「ここちよいと感じている『感覚』」そのものを、
できれば、
しっかりと、感じ入り、味わい、見つめみてください。

そうすると、
あの、怒濤のように押し寄せてくる、
大きな「ここちよさ」が、

実は、
「お湯に接している『肉体』そのものが感じている感覚」だけでは、ない、
と、
感じられるのではないか、と、思います。

僕が、感じるところによると、
むしろ、その『大部分』が、
「お湯によって『肉体』が感じている感覚そのもの」
では、ありません。

その感覚を、あえて、分析してみると、
僕には、その大部分が、
「お湯が、直接的にもたらした、肉体的感覚」では、ない、
と、感じられます。


 「では、そのここちよさは、何なのか?」
というと、

僕には、
おそらく、その、約6割〜7割方は、
 「『思考』が、完全に、停止していて、
  意識が、しっかりと、『いま、ここ』に、根を下ろしている」
ということから来る、
「気持ちのよさ」「ここちよさ」だと、感じられます。

僕は、
そう、認識しています。

というのは、
あの、ここちよさが、
『ハート』をしっかりと、感じ入れたときに感じる、
温かさ・安らぎ感に、とても、似ているからです。

また、
あの、ここちよさを、しばらく味わったら、
その、すぐ後に、
あえて、思考を働かせてみてください。
あえて、何か、考えごとをしてみてください。
思考に、入ってみてください。

すると、
みるみると、あっという間に、さ〜っと、
あのここちよさが、消えていくのが、感じられると、思います。

しかも、
肉体の、お湯に接している、体表部分の「ここちよさ」は、
減りはするものの、まだ、感じたまま、だと、思うのです。

あえて、説明すると、
そのようにしか、お伝えできないのですが、

なので、
あの、ここちよさは、

 「『思考』による、エネルギーの浪費が、完全に、止まり
  かつ、
  『いま、ここ』の、安らぎに、至福に、完全に、ひたっている」

ということによる、「ここちよさ」が、
その大部分を、占めているものと、
僕は、認識しています。


 「『思考』というものが、いかに、エネルギーを浪費しているか」
ということについての、僕の認識については、
すでに、
過去記事「思考によるエネルギーロス」にも、書きましたが、

 「そのような、『浪費』がなく、
  しかも、
  しっかりと、『いま、ここ』に、在れると、
  しっかりと、『いま、ここ』の感覚に浸れると、
  ここまでに、安らぎに、安心感に、包み込まれるんだ」

ということを、
感じ取ってもらえる、絶好の機会だと、思います。

ぜひ、
あの、気持ちよさを、ここちよさを、
じっくりと、しっかりと、深く、細かく、
感じ、味わってみてください。

ぜひ、
それを、習慣づけてみてください。


それから、

津留さんの時代から、いまにおいても、
『浄化』について、ご説明すると、

 「『浄化』によって、
  だんだんと、『感情の機微』を、感じなくなってくると、
  日常は、つまらなくなってくるのではないか?
  喜びは、感じられなくなってくるのではないか?」

という、ご質問を、受けることがあります。

『浄化』の途上である、僕は、
まだまだ、『ブロック』だらけの、僕は、
これに対する、『体験的』『経験的』な、お答えを、
持ち合わせては、いないのですが、

でも、
先ほどから、お伝えしている、
お風呂に入ったときに感じる、あの、ここちよさが、
充分に、ポジティヴで、
充分に、多い・大きい・強い感覚であると、感じられる、
ということからすると、

津留さんや、その他の覚者の方々が、説明されているとおり、
そのときには、

これまでの、
 「『2極』ゆえにもたらされる、『ポジティヴな感覚』」
とは、
それらとは、まったく、違った種類の、

穏やかで、安らかで、細やかで、でも、濃密で、包み込むような、
そんな、至福感が、
しかも、断続すること無く、途切れることなく、継続して、
感じられるのだと、思います。


そんなことを、
冬場のお風呂に浸かって、想っています。












2015年1月28日水曜日

排泄


 「『いま、ここ』に居る」こと
 「『意識的』である」こと
 「『思考』から離れている」こと

そうしていることが、とても、難しいときが、
ありますよね。

たとえば、
 「大きな怒りが、湧き上がっているとき」
 「大きな恐怖に、覆い込まれているとき」

そんなときに、
それらから離れ、
意識的な状態でいること、
そんな状態をキープすることは、
なかなかに、難しいことですよね。


日常生活の中で、僕が、比較的頻繁に、
その難しさを、感じるケースが、あります。

それは、
汚い話で、恐縮ですが、
「排泄を、我慢しているとき」です ^^; 。

尿であれ、便であれ、あるいは、おならであれ、
それらの排泄・放出を、我慢しているとき ...

どうでしょう、
みなさんも、そんなときには、
 「『いま、ここ』に、居ること」
が、とても難しいのではないでしょうか?

頭の中では、
 「どうしよう?」「どうできるだろう?」
 「まだ、大丈夫かな?」「あとどれくらい、大丈夫かな?」
 「どこに、トイレがあったっけ?」
 「あのとき、行っておけばよかった」
 「あんなもの、食べなければよかった ... 」
 「あいつが、あんなタイミングで、トイレを使ってたから ... 」
そんな、さまざまな想いが、
止めどもなく、駆け巡り、

そして、
身体に襲ってくる、強烈な痛みや苦しみなどの感覚に、
意識は、さまざまに、動き、飛び、巡り、
『いま、ここ』に、留まることが、難しいのではないでしょうか?


そんなことを、そんなときの難しさを、
改めて、しっかりと、認識したとき、

次の、二つのことに、
気づかされました。


一つは、
『肉体』というものの持つ、その力の強さ、
あるいは、
人間にとっての、『肉体』というものの重要性、
です。

 「『肉体』というものが放つ、感覚の、力強さ」
 「『肉体』というものが感じ取る、感覚の、強烈さ」

そんなものを、
改めて、強く、認識させられます。

何度も繰り返しますが、
そんな感覚をこそ、感じてみたくて、味わってみたくて、
元々『神』であった、わたしたちは、
物質宇宙を創り出し、
人間を創り出し、
そして、
その中に入り込んで、『体験』をしているわけです。

それら、感じる感覚が、感覚こそが、
強く、強烈で、鮮明であることは、
いわば、当然ですよね。

また、
その感覚を感じさせてくれる『肉体』の、
その感覚を感じる主体である『肉体』の、
その重要性というものも、
認識させられます。

そして、それゆえに、
その、肉体感覚に基づいた、『エゴ』というものの力強さも、
その、肉体感覚を、ある意味、制御しようともがいている、
『エゴ』というものの、存在感の強烈さも、その吸引力の強さにも、
うなずかされます。

このように考えれば、認識すれば、
それはそれで、仕方のないことだ、
とも、思えます。

ですので、
『人間』というのは、
そのような『仕組み』に、なってしまっているのですから、

『エゴ』に引きずられてしまう自分を、
『エゴのつぶやき』『思考』に埋没してしまう自分を、
それはそれで、仕方のないこととして、
どうぞ、とがめず、否定せず、
そして、もし可能ならば、許し、認めてあげてください。

 「『エゴ』は、『エゴ』で、自分の役割を、しっかりと、果たしているんだ」

そのことを、
もし可能ならば、認めてあげてください。

 「自分が、自分を、否定すること」
 「自分の内側で、自分に対して、『否定』『拒否』を与えること」

それほど、確実に、
自分を痛め、傷つけ、苦しめることは、ありませんから ...


そして、もう一つ。

 「この、『排泄』という行為は、
  実に、『浄化』と、似ているなぁ」
と、
思いました。

『排泄』のケースでは、
もし、それができない場合、あるいは我慢している場合、
おそらくは、
物理的に、それが可能ではないから、できない・我慢している、
ということが、多いと思います。

 「電車の中だから」
 「トイレが無いから」
そのような理由で、
『排泄』ができない、我慢せざるを得ない場合が、
ほとんどだと、思います。

ですが、
場合によっては、
『自らの意思によって』、
排泄をしない・我慢している、という場合も、
ありますよね。

たとえば、
 「『尿』『便』が、汚いものだから」
とか、
 「その臭いをかぐことが、不快だから」
とか、
 「『排泄』することが、恥ずかしいから」
とか、
 「『排泄』行為自体が、汚(けが)らわしいものだから」
とか、

そんな理由によって、
『自ら』、『自らの意思によって』、
排泄をしない・我慢するケースも、有り得ますよね。

特に、「おなら」の場合なんかは、
 「恥ずかしいから」
 「臭いを出すことが、嫌だから」
 「失礼だから」
 「マナー違反だから」
とかで、
我慢するケースが、結構、ありますよね ^^ 。

そして、
そんな場合であれば、
そのときには、まさに、そうなのですが、

身体から出してしまうことが、(ある意味)自然なのに、
それを、自らの意思によって、出さず、留めていて、
そして、留めているから、それが理由で、
それによって、苦しさや、不快感を、感じさせられている、わけです。

その、留めている理由が、
たとえば、社会的通念や、道徳規範、マナー、などであったりして、
「そうすることが、当然だ」とか、
「そうすることが、むしろ『良いこと』だ」とか、思っていると、
そのような行為を、『無意識』のうちに、行っていて、
「『自らの意思・判断』によって、そうしている」という認識さえ、無い、
という場合も、あります。

ですが、
それを、意識できているにせよ、無意識にせよ、いずれにせよ、
苦しく・辛く・不快なのは、
便や尿が、排泄されず、体内に留まっているからであり、
それらが「留まっている」のは、
「留めている」からです。

その、苦しさ・辛さ・不快さから、逃れるために、
すべきことは、ただ、一つ、
「排泄すること」、ただ、それだけです。

排泄してあげさえすれば、いいのです。
体内から、出してあげさえすれば、いいのです。

そうすれば、
あの、痛さ・苦しさ・辛さから、解放されます。

そして、『スッキリ』します。

場合によっては、そのときに、
「ある種の『快感』」さえ、感じることでしょう ^^ 。

そんなときには、
すべての『思考』さえ、止まっていて、
意識は、『いま、ここ』に、たたずんでいることでしょう。


『浄化』も、
まったく、同じです。

苦しかったり、悲しかったり、辛かったり、
怖かったり、いらだたしかったり、不快だったり、するのは、

過去の未消化な感情、過去の想い、過去の記憶や、
観念、価値観、社会的通念、など、
すなわち、『エネルギーブロック』が、
体内に留まっているからであり、

そして、
それらが「留まっている」のは、
意識できているにせよ、無意識にせよ、
それらを、『自ら』「留めている」から、です。

まさに、
『自ら』、「握っている」「手放さずにいる」から、
なのです。

そんなとき、
それらの、苦しさ・悲しさ・辛さ・怖さから、
逃れるために、解放されるために、
すべきことは、ただ、一つ、

それらの『エネルギーブロック』を、
「解放してあげること」、ただ、それだけです。

「握っている」その手を、ゆるめ、開き、
それらを、自ら、「手放す」こと、
ただ、それだけです。

そうして、
自分の中から、出してあげさえすれば、いいのです。

そうすれば、
苦しさ・悲しさ・怖さから、解放されます。

一度では、あるいは、すぐには、
もしかしたら、解放されないかもしれません。
でも、
その、苦しさ・悲しさ・怖さは、
その度ごとに、少なくなっていきます。

そして、
場合によっては、
それは、多々あることなのですが、
『スッキリ』します。

そして、
『思考』も、穏やかになり、ゆるやかになり、
『いま、ここ』で、ゆったりとした幸せを、くつろぎを、
感じられるかも、しれません ...


 「そうか、いま、苦しいのは・辛いのは、
  トイレを、我慢してたようなものなんだ」
  
 「『浄化』って、トイレに行くようなものなんだ」

もし、そんな風に思ってもらえたら、
とても嬉しいです。









2015年1月26日月曜日

慣性の法則


今回、名古屋でのイベントでは、
『浄化』について、
たくさん、お話しをさせていただきました。

浄化実践講習会や、個人セッションで、
『浄化』について、お話しさせていただくのは、
いつもどおり、なのですが、

今回は、津留さん交流会でも、
はじめてお会いする方々の前で、
いっぱい、『浄化』について、
概要をご説明し、ポイントなどをお伝えさせていただく、
そんな機会がありました。

そして、
それら、「『自分』が話しをしている」ことを、
改めて、「『自分』が聞く」、という過程をとおして、

それら、「浄化のポイント」などとして、お伝えしている内容を、
改めて、自分にも当てはめてみる、ということをとおして、

一つ、
再認識したことが、あります。

それは、
 「僕が、日常生活において感じている『ストレス』が、
  おかげさまで、ずいぶんと、少なくなっているんだ」
という、
個人的な『事実』です。


過去記事「ハート観察」でもお伝えしたとおり、
僕は、ふだん、
自分の「ハート」の状態に、意識を合わせ、
そこで、ストレスを感じているかどうか、を、見張るように、
心がけています。

そして、
ストレスを感じていることを、認識したら、
無理の無い範囲で、速やかに(基本的には、「即」)、
それを浄化するように、しています。

ところで、いま、
 「ストレスを感じている」
と、書きましたが、

おかげさまで、「見張る」という行為が、
ずいぶんと、習慣づいてきましたので、

最近では、
 「ストレスを『感じている』ということに、気づく」
というよりは、
 「ストレスを『感じはじめた』ということに、気づく」
ということが、ずいぶんと、できるようになってきましたし、
そんな機会が、ずいぶんと、多くなりました。

 「感じるストレスを、浄化する」
ということを、
ゆっくりですが、あせらずに、丹念に、行ってきた、
その結果だと、思います。

そのような状態になれていることを、
今回の、名古屋でのことを機会に、
改めて、認識したのですが、

で、さらに、
名古屋でのことをきっかけに、
 「自分の、ふだんの、状況・状態」
 「自分が、ふだん感じ(てい)る、ストレスの強さ」
そんなものを、
改めて、チェック・再確認してみたところ、

 自分の、ふだんの状態が
 ずいぶんと、穏やかで、落ち着いてきていて
 自分が、ふだん感じるストレスが
 充分に小さく、充分に少なくなっている

そう、認識するに、至りました。


正直に、正確に、言うと、
まだまだ、細かいストレスを、しょっちゅうしょっちゅう、感じていますし、
割に大きめの・強めのストレスも、まだまだ、感じる機会があるので ^^; 、

自分では、『頭』では、
そのような認識を、持ってはいませんでした。

でも、逆に言うと、
自分が、ふだん、常に、「ストレスチェック」「ストレス探し」をしていて、
小さな、細かいストレスにまで、気を向けていた、気づけていた、
『その結果』、
自分の状態を、「まだまだ」と認識していたのだ、
とも、言えると思います。

そして、もう一つ。
もう一つ、自分の状態を、ちゃんと認識できていなかった理由は、
 「自分は、常に常に、思考が動いていて、
  まだ、ぜんぜん、思考が止まっていない。思考から離れていない」
という、
僕の状態への、認識があります。

ストレス(の素である『エネルギーブロック』)が、
思考を、動かします。
思考を、働かせます。
頭に、考えさせます。

ですので、僕の場合には、
 「思考が、常に常に、動いている」
ということを、充分すぎるほど ^^; 、認識していたので、
 「その原因である、ストレス(『エネルギーブロック』)が、
  まだまだ、たっぷりあるはず」
と、自分の状態を、判断していました。

ところが、
改めて、自分の、ふだんの、ストレスの状態を感じてみると、
それは、もう、ずいぶんと、小さく、軽くなっていました。

改めて、感じてみると、
もう、『ふだんの自分』というは、
おかげさまで、
特には、困ってはいないし、苦しんではいないし、不快さを感じていないし、
もう、ずいぶんと、穏やかで、ゆったりしています。


で、
そのような、自分の状態に、気がついて、
それゆえに、気がついたこと。

それは、
ということは、
 「ストレス(『エネルギーブロック』)が、少なくなれば・無くなれば、
  自動的に、思考は止まる」
というわけでは、ない、ということです。

 「ストレス(『エネルギーブロック』)が、多いと・強いと、
  自動的に、思考が動きだす」
ということは、そう、そのとおりなのですが、

でも、その反対の、
 「ストレス(『エネルギーブロック』)が、少なくなれば・無くなれば、
  自動的に、思考は止まる」
というわけでは、ない、のですね。

少なくとも、
『僕の場合』は、そうではありませんでした。

実際、
「思考を止める」ということに、意識を向けてみると、
前よりも、容易に、
前よりも、長い時間、
思考を止めておけるように、なっていました。

ですので、
ストレス(『エネルギーブロック』)が、少なくなって、
思考が止まりやすい状況になっていることは、間違いない、
と、思うのですね。

それでも、
思考は、
「思考を止める」ということに意識を向け、
それを行為することによって、
はじめて、止まるんですね。

ということに、
今回、気づくことができました。


これは、まるで、
たとえば、
 「自転車を動かすには、ペダルを踏み漕がなければいけないけど、
  漕ぐのを止めただけだと、自転車は、そのまま進む。
  自転車を止めるには、ブレーキを掛けなければいけない」
というのと、
とても似ているなあと、感じました。

つまり、
思考にも、『慣性の法則』が、働いているんですね!

そして、
思考を止めるためには、
自転車でいえば、「ブレーキを掛ける」に相当する、
「思考を止めよう」とする、別の作業・行為が、必要なんですね。

津留さんが、
 「『外の世界』は、『こころの世界』が映し出されたのものなのだから、
  外の世界に関する『物理法則』は、
  こころの中の世界の『法則』そのままであり、その一部だ」
と言っていたことを、
改めて、思い出しました。

『慣性の法則』というのは、
そもそも、こころの中、わたしたちの『内側』の、法則であり、
そして、それは、
『思考の動き』に関しても、
ある意味、当然に、
当てはまっているんですねぇ。

そんなことを、自分自身の体験から、自分自身の観察から、
知ることができ、認識することができ、
なんだか、思わず、嬉しくなっちゃいました ^^ 。


さて。

というようなことで、
現在の、僕の、個人的な状況としては、
おかげさまで、ここに来て、
一つ、新たな段階・ステージに、至ったのかも、しれません。

僕の『浄化の旅 ^^ 』は、
 「次の、踊り場に、着いた」
 「次の、一里塚に、着いた」
 「何合目かに、着いた」
のかも、しれません。

誤解のないように、
読み手のみなさまに、より正確にご理解いただけるように、
改めて、ちゃんと、正確に、虚勢を張らずに、お伝えすれば、

先ほども申したとおり、
僕は、小さくなったとはいえ、まだまだ、ストレスを感じていますし、
ときには、大きなものも、まだまだ、感じます。

まだまだ、
ハートは、動きますし、痛みます。
まだまだ、
感情は動きますし、思考にも入ります。

まだまだ、
悟りのようなものとは、ほど遠い、
『完全に』『普通の』人間です ^^ 。

ただ、
悩んだり、困ったり、苦しんだりは、
ずいぶんと、しなくなりました。

これも、完全に、
「『過去』の自分との、比較」なのですが、
日常の状態は、
ずいぶんと、楽に、穏やかに、なりました。

津留さんが、
 「浄化を進めて行って、『楽になったから』といって、
  そこで浄化を止めてしまうのは、もったいない」
と言っていた、
その、『そこ』の位置に、その近辺に、
もしかしたら、たどり着けたのかも、しれません。

ですが、
だからといって、
ここで、浄化を止めるつもりは、
僕の場合は、ありません。

津留さんが「もったいない」と言っていたとおりに、
この先に、さらに、いままでとは違う状態・世界が、あるのでしょうから、
僕の場合は、
 「その先の世界にも、進んでみたい」
 「その先の状態も、体験してみたい」
と、想っているからです。

ただ、
おそらく、
「新たな段階にたどり着いた」ということ、そのものは、
間違いないのだと、思います。

そして、
この段階に着いたのならば、
ここでは、これからは、
これまでとは、
『意識の位置』『意識の向き』『意識の焦点』を、
少し、変えるのが、いいのだと思います。

あるいは、
 「新たなことも、きちんと、意識するべきタイミングに、やって来た」
と、表現できるかも、しれません。


これまでは、
とにかく、ストレスが(それなりに)大きかったし、多かったので、
とにかく、それを、少なくすること、小さくすること、無くすこと、
つまり、その『浄化』に、
焦点を当ててきました。

ですが、
この段階では、これからの段階においては、
もう、その、ストレスそのものの方は、
ずいぶんと、治まって来ていますので、

もう、日常の状態において、
それで、常々、困ってしまったり、辛かったりは、してしないし、
穏やかで、ゆったりとした感覚を、感じられるように、味わえるように、
なって来ていますので、

これからは、
「その感覚を感じる・味わう」ということに、意識を当て、
そして、その部分・その感覚を増やすことに、
より、意識を向ける段階なのだと思います。

 「『思考』を止める」
 「『思考』を見張る」
ということに、
あるいは、
 「『いま、ここ』に居る」
 「『いま、ここ』を感じる」
ということに、
より、意識を合わせて行くべき段階、なのだと思います。


 「ストレス(『エネルギーブロック』)が、充分に少なく・小さくなれば、
  自然と、自動的に、
  思考が止まり、『いま、ここ』に居られる」
 というわけではない。

ということが、
少なくとも、僕個人の体験からは、分かりました。

 「『思考』にも、慣性の法則が働くのだ」
ということが、
少なくとも、僕個人の体験からは、分かりました。

みなさま、それぞれの、『浄化の旅』の、ご参考になれば、
と、思います。












2015年1月21日水曜日

写真・名古屋旅行記


2015年1月9日(金)、
この日は、午後から、個人セッションがあったため、
早朝に、家を出て、
名古屋に向かいました。

この日も、おかげさまで、晴天に恵まれ、
道中は、雲もほとんど無い、『日本晴れ』で、
富士山も、その美しいお姿を、拝ませてくださいました。




無事に、定刻どおりに、名古屋に着けたため、
午後の個人セッションまで、時間があったので、

まず、はじめに、
ともに『尾張国一宮』である、
真清田神社さまと大神神社さまに、
ご挨拶に伺いました。

真清田神社

大神神社



両神社は、徒歩で約30分ほどの距離にあります。
真清田神社さまへの、ご挨拶が終わり、
大神神社さまへ向かって、歩いているときでした。

妻からの、電話です。
受けると、その、声の調子で、
妻が、楽しげに微笑んでいることが、感じられます。

 「さっき、シャンタンさんから、電話があったよ!」

そう聞いて、僕も、思わず、笑ってしまいました。

シャンタンさんから、最後に、ご連絡をいただいたのは、
今回と同様に、
ちょうど、イベントで、北海道へ行っているときだったからです
(よろしければ、過去記事「写真・北海道旅行記5 ー二風谷での祈り」をご覧ください)。

そして、その伝えられたご用件をお聞きして、
さらに、笑ってしまいました。

 「1月11日、11時11分11秒、
  『光の柱』を立てるイベントをするんだって、
  名古屋で ... ! ^^ 」

その、『偶然の一致』具合に、
びっくりするよりも、笑ってしまいました。

しかも、シャンタンさんも、
 「尾張(おわり)名古屋から、始める」
という意図を持って、名古屋でなさる、
とのこと。

僕の場合は、
そもそも、今回の名古屋でのイベントを、2014年12月に行って、
「尾張名古屋で、終えよう」と、
思っていました。

ところが、
12月では、どこも会場が取れず、
そこで、2015年1月に変更して、会場を探したところ、
この3連休(プラス、前日の金曜日も)、
会場が、見事に空いていたため、
この日程になり、
「尾張名古屋から、始めさせていただく」ことになったのです。

この、シャンタンさんとの『シンクロ』具合、
何なんでしょうか? ^^

しかも、1月11日当日、
シャンタンさんと、電話でお話ししたときに、お聞きしたとことによると、

シャンタンさんが、「名古屋で」と、お感じなった理由の一つに、
 「『Dr.スランプ アラレちゃん』という、
  桁外れな作品を産み出した、『鳥山明』さんの出身地、だから」
というのが、あるのだそうです。

 「『鳥山明』さん、といえば、
  シャンタンさんのニックネームの一つ、『亀仙人』の、
  『ドラゴンボール』の、作者でも、ありますよね!」
思わず、そう、お伝えしてしましました。

 『津留(つる)』と『亀』(仙人)

そんな繋がりも、今回、あったようです ^^ 。


さて、
今回の『名古屋イベント』は、
イベントとして、本当に、楽しかったです
(よろしければ、「『第1回名古屋イベント(2015年1月)』のご報告」のページをご覧ください)。

それと同時に、
個人的には、とっても美味しかったです。

『名古屋名物』と呼ばれるものを、
存分に、満喫させていただきました ^^ 。







また、
今回の、この期間は、
これまた、『偶然』なのですが、

熱田神宮さまで、
 『新年御垣内参拝』
が、取り扱われていて、

はじめての、熱田神宮さまに、
普段は、入ることのできない、御垣内において、
ご挨拶をさせていただくことが、できました。

( 祝日で、込み合った、熱田神宮。  
  ここは、御垣内ではなく、その外です )



帰りの道中でも、
富士山を、間近に、拝ませていただくことができ、

今回の、『名古屋イベント』を、
こころからの、感謝とともに、
締めくくらせていただくことができました。












2015年1月20日火曜日

『片付け』の魔法2


もう、ずいぶんと前になってしまったのですが、
『片付け』の魔法」という記事を、書かせていただきました。

アップした直後に、読み返したときから、
一つ、とても重要なことを、書き忘れていることに、
気がついては、いたのですが、

なんとなく、筆が進まないまま、
2ヶ月以上も、経ってしまいました。

そんな中、昨日、個人セッションの最中に、
そのことそのものが、話題になり、
また、新たな情報も、そこで、お聞きしたので、

良い機会だと思い、
ここで、稿を改めて、書かせていただきます。


さて、
先の、こんまりさん(近藤麻理恵さん)の方法では、

「片付け」にあたっては、
「整頓」に入る前に、
まず、「捨てる」ということを、完全に、終わらせてしまいます。

そして、
その、「捨てる」という作業においては、
 「『ときめく』かどうか」
という、
 「『気持ち』を基準にして、モノを選別」
していきます。

そのことが、
こんまりさんの方法の、最大の特徴の一つ、だと思います。


ところで、
その方法を実践して行くに際しては、

「捨てる」という段階において、
当然ながら、先の基準に従い、

自分が所有しているモノを、
 「ときめくモノ」
 「ときめかないモノ」
の2種類に、選別していくわけですが、

ここで、
 「ときめくモノ」
というのは、分かりやすいですよね。

 「着ると、ときめく、服」
 「身につけると、ウキウキする、アクセサリー」
 「読むと、こころがワクワクする、本」
 「使うのが大好きな、鍋」

そんな、モノたち、ですよね。

それらは、言い換えれば、
 「自分に、プラスの気持ちを、もたらしてくれるモノ」
というように、言えるかもしれません。

そして、
それらが、自分の身の回りに存在することによって、
自分の気持ちは、ポジティブなものになります。
あるいは、
気持ちのポジティブさが、増えます。


では、
一方で、

 「ときめかないモノ」
って、
何でしょう?

それって、
どんなモノでしょう?

あるいは、
より詳細に言えば、
 「『ときめく』という理由が無いのに、所有していたモノ」
って、
いったい、何でしょう?

どうして、なぜ、
そのようなモノを、保持していたのでしょうか?


それには、
もちろん、様々な理由があるでしょうし、
言葉で表現すれば、
実に様々に、説明することができるでしょう。

ですが、
おそらく、ほとんどのケースでは、
たとえば、
 「捨ててしまうのは、もったいないから」
 「○○○○円もしたモノだから」
 「彼から貰ったものだから」
 「もしかしたら、もう手に入れられないかもしれないから」
 「今後、無いと困るかもしれないから」
そのような理由で、
これまで、捨てられず、そして、所持していたモノ、
ではないでしょうか。

もし、そうであれば、
それらは、
 「無くなってしまうのが、嫌だから。怖いから。恐ろしいから」
という理由で、所持していたモノ、

先の言い方で言えば、
 「無いと、マイナスの気持ちを、もたらしてしまうかもしれないモノ」
と、言えるかもしれません。

つまり、端的に言えば、
基本的には、
 「『恐れ』から、所持していた」
と、
言うことができる、と、思います。


で、
ここからは、昨日、お聞きした情報です
(なので、用語を含め、正確ではない可能性があります)。

これまた、「片付け」の方法である、
『断捨離』の、やましたひでこさん、によると、

片付けられない人、モノを捨てられない人は、
いくつかのタイプに分けられるそうで、

そして、それらのなかに、
 「未来不安型」
や、
 「過去執着型」
といったタイプが、あるそうです。

そして、
そういった人々は、
「未来への不安」や、あるいは、「過去へのとらわれ」といった、
まさに、『恐れ』が、原因で、
モノを捨てられない。

で、
モノが捨てられないので、モノがあふれていて、
そこで、整頓しようにも、整頓できない。

わたしたちは、そのようなプロセスで、
モノを過剰に持ち続け、
そして、片付けができないでいる、んですね。

 「まさに!」
という感じがします ^^ 。


このように、
わたしたちは、『恐れ』ゆえに、
無数のモノを、所持していて、

そんなモノたちが、
雑然と、しかし、厳然と、
存在し、存在感を放ちまくり、

そんなモノたちに囲まれ、それらに圧倒されているがゆえに、
寛(くつろ)げず、安らげず、
イライラとした状態で、生活し、

また、
必要なものが見つからず、不便をし、
さらに苛立(いらだ)ち、

そして、
せっかく持っている『ときめく』モノも、
自分の気持ちを、プラスにしてくれるモノも、

それが、
無数のモノの中に紛(まぎ)れてしまって、
それを、ちゃんと、見いだせなかったり、
あるいは、
その『ときめき』感を、ちゃんと感じられなかったり、
しています。

このように、
「片付けられない」状態によって、
ストレスを感じながら、
生きています。


そして。

それとまったく同じように、
わたしたちの内側には、こころの中には、
 『恐れ』
というものが、
多数、存在しています。

そして、それらが、
狡猾(こうかつ)と潜(ひそ)み、かつ、厳然と存在していて、

それらの存在が、
存在そのものが、存在感が、

ときに、静かながら苛立たしく、
ときに、騒々しく、騒がしく、
ときに、威圧的で、圧迫的で、圧迫感を持っていて、

それゆえに、
まず、そもそも、苛立たしかったり、
あるいは、そもそも、騒がしく、うるさく、
そして、落ち着かず、寛(くつろ)げず、
ゆったりとすることが、できません。

また、それゆえに、
そんな、マイナス(ネガティヴ)な感覚に、
自分の感覚器官・センサーを、支配されていて、
自分の感覚が、麻痺させられていて、

自分が、本当のところは実は、感じている、
『ときめく』感覚や、
穏やかな温かい感覚、安心感、
あるいは、「そのままの自分でいい」というような至福感、

そんな、プラス(ポジティヴ)の体感覚を、
しっかりとは、感じ取ることができずに、
それゆえに、
「そんな感覚は、自分には無い」とすら、思い込んで、
日常生活を送ってしまっているんですね。


ところが、
そのような『恐れ』を、
自ら、捨てて行く・無くして行く・手放して行くと、

自分を、苛立たせる感覚や、
自分の中で騒ぎ立てる『者』や、
自分を威圧してくる感覚、
そういったものが、だんだんと、無くなってきます。

日常が、日常感じる感覚が、
あるいは、自分の内側が、
静かに、落ち着いて、穏やかに、なってきます。

そうなると、
そうして、はじめて、
自分の中に存在している、
プラス(ポジティヴ)な感覚、
安心感・温かさ・自信・至福感を、
ちゃんと、感じられるようになるのです。


そして、
これは、また、
津留さんが言っていた、

 「エゴの声が、大きくて、うるさくて、
  『内なる神』の声が、想いが、
  聞こえない、分からない」
 「それが、聞こえるようになる・分かるようになる」

というのと、
まったく同じ状況なのです。

わたしたちは、誰でも、
『内なる神』の声を、受け取っていないわけでも、
『大我』としての自分の想いを、
あるいは、『本当の自分』の想いを、受け取っていないわけでも、
ないのです。

わたしたちは、それらを、しっかりと、受け取っていて、
それらは、わたしたちの内側に、確実に、存在しているのですが、

ただ、
わたしたちの内側が、
あまりにも、騒々し過ぎて、
あるいは、ものにあふれ過ぎて、散らかり過ぎて、雑然とし過ぎていて、

それらを、ちゃんと、
聞き取れていないだけ、
つかみ取れていないだけ、
なのです。

それらを、
しっかりと、聞き取り・受け取り、理解するためには、

それらを『受け取る』、
という努力をする必要があるわけではなく、

ただ、聞こえなくしている・分からなくしている『原因』である、
『雑音』を取り払い、『邪魔なもの』を捨てれば、いいのです。

これまた、いつもながら、
『パラドックス』なのです。

そして、
そのために必要な、具体的な作業(の一つ)が、

内側の、『雑音』や『邪魔なもの』を、
捨て去り、片付ける、具体的な方法(の一つ)が、
『浄化』なのです。


 「『本当にやりたいこと』が、分からない」
 「『真の自分の想い』に従って、生きたい」

そんなとき、そんな想いがおありのとき、
そんなときには、
あるいは、そんなときにこそ、
なぜ、『浄化』をしていただきたいか ...

ご理解いただけるものと、思います。











2015年1月14日水曜日

『第1回名古屋イベント』を終えて


2015年1月9日(金)から、1月12日(月・成人の日)までの、4日間、
おかげさまで、名古屋ではじめてのイベントを、
無事に、開催することができました。


今回は、のべ23名の方々に、ご参加いただきました。

1月11日(日)の『津留さん交流会』には、9名の方々が、

1月12日(月)成人の日の『浄化実践講習会』にも、9名の方々が、

そして、
4日間にわたっての『個人セッション』には、5名の方々が、

それぞれに、ご参加くださいました。


今回の、名古屋でのイベントの感想を、一言で表すと、
とにかく、
 「楽しかった!」
です ^^ 。

いつもながら、
今回も、集まってくださったみなさまは、
それぞれに、素敵で、素晴らしい方々ばかりで、

そして、
当然ながら、一様に、
 「津留さん(のメッセージ)のことが、好き」
でいらして ^^ 、

そんな方々に、大勢、お会いできたことだけで、
とても楽しかったのですが、

さらに、そんな方々と、
スピリチュアルなことについて、
津留さんについて、津留さんのメッセージについて、
さらに、浄化について、

忌憚(きたん)なく、おもいっきり、話しができたのは、
僕としても、とっても、楽しかったです! ^^


改めまして、
今回、ご参加くださったみなさま、
本当に、ありがとうございました。

また、お目にかかれる機会がありますこと、
お話を伺える機会がありますことを、
楽しみにしています。

次回の、名古屋での開催の予定などは、
現時点では、未定ですが、
また開催できるよう、努めてまいります。

どうぞよろしくお願いします。

  集合人編集局 ひで



 今回の『第1回名古屋イベント』の様子や、いただいたご感想については、
 こちらの「『第1回名古屋イベント(2015年1月)』のご報告」のページをご覧ください。