2017年6月30日金曜日

8月26日『お金』浄化ワークショップ 開催のお知らせ


 第2回目の、「『お金』浄化ワークショップ」を、
 8月26日(土)に、開催します。
 
 
 おかげさまで、
 前回の、第1回目のワークショップは、
 ご好評いただきました(と、思っています ^^ )。
 
 そして、その体験から、
 「どの部分が、みなさんにとって、一人だと、気づき難いところなのか」
 「どの部分が、新鮮な気づきになるのか」
 「どうお伝えするのが、よいのか?」
 「どの部分を、深め、どの部分を、しつこくないようにしたらいいのか」
 など、
 主催側として、多くの気づきを得られました。
 
 そんな経験を生かし、
 そして、ご参加くださった方々からいただいた、
 ご感想やご意見などのフィードバックを受けて、
 
 ブラッシュアップした内容を、
 厳選しながらも、盛りだくさん、ご提供します。
 
 
 そして、今回からは、時間を延長し、
 午前と午後の、丸一日のワークショップとします。
 
 その分、
 
 浄化実践も、しっかりと、行っていただきます
 (浄化方法・ポイントをお伝えし、実践のお手伝いもします)。
 
 質疑応答の機会・時間も、ふんだんに、設けてあります
 (疑問や、質問がありましたら、この機会に、お尋ねください)。
 
 
 『お金』に関するブロックに気づき、それを浄化したい方、
 『お金』を通して、『自分』『仕事』『他人』『社会』『人生』をどうみなしているか、
 それに気づき、浄化していきたい方、
 『お金』を通して、『浄化』そのものを、より深く理解し、さらなる実践を行いたい方、
 
 そのようなみなさまのご参加を、お待ちしています。
 
 
 ワークショップ形式で、行いますので、
 その特徴として、
 
 複数の方々と、ともに学び、実践することで、
 お互いに、刺激することや、気づくことが、あると思います。
 
 また、多くの方々に共通する、項目・事項や、傾向などを、
 多数、お伝えしますので、
 「一般的」な部分を、かつ具体的に、知ることができると思います。 
 
 また、こちらからお伝えすることを、お聞きいただき、理解していただく形式なので、
 「自分の状況・悩みを、打ち明けるのには、抵抗がある」という方は、
 ご自分で理解し、進めて行くことができるならば、
 この、ワークショップ形式は、とても、有効な手段・方法であると思います。
 
 そのような点に、ご感心がおありな方には、
 魅力的な内容となっているのではないかと、思っています。
 
 よろしければ、ご参加をご検討なさってみてください。
 
 
 なお、
  「自分の状況・悩みを、具体的に聞いてもらい、特定的に浄化をしたい」
 という方の場合は、
 もしかしたら、個人セッションを受けていただいたほうが、良いかもしれません。
 
 ご参考になさってください。
 
 
 それでは、
 「『お金』浄化ワークショップ」でお会いできることを、楽しみにしています。


集合人編集局 裕子・ひで(2017年6月30日 記載)  



  詳細・お申し込みは、
  こちらの「 『お金』浄化ワークショップ 」(外部ページ)で お願いします。












2017年6月26日月曜日

他人の「イライラ」

 
 僕の、現在の、浄化の対象は、
 8割がた、「他人の『イライラ』」です。
 
 はじめのうちは、
 「お金のこと」「仕事のこと」
 そして、「蚊のこと」^^ が、ほとんどでした
 (「蚊のこと」については、よろしければ、こちら をご覧ください)。
 
 そのうち、
 それらの浄化が、
 少しずつ、進むにつれて、
 
 それらのことが、
 少しずつ、気にならなくなり、
 それほどには、重く感じられなくなり、
 
 かわって、
 現在、日々、とにかく、感じることは、
 「他人の『イライラ』」を、嫌がる感情・感覚です。
 
 
 他人が「イライラ」していると、
 とにかく、不快です。
 
 落ち着かず、
 あるいは、怖く、
 場合によっては、こちらがイラつきます。
 
 「怒っている人」や、「イライラしている人」のことを、
 好きな人、得意な人は、
 そもそも、あまりいないと思います。
 
 みなさん、総じて、
 好きではないし、嫌いだと思います。
 
 津留さんの場合も、そうで、
 そして、それが、
 『浄化』というものを理解し、生み出した、きっかけでした。
 
 
 みなさん、総じて、
 そういう人のことを、
 嫌いで、苦手で、
 
 なので、
  「では、どうして、嫌なのか・嫌いなのか?」
 については、
 あまり、考えたことも無いかもしれませんが、
 
 僕の場合、
 その、おもな理由は、
 
 他人が「イライラ」していると、
 
  「その原因は、自分にある」
  「自分が悪い」
 と、
 感じてしまうからです。
 
 
 僕の場合、今回の人生で、
 「イライラしている人」は、
 
 幼少期においては、
 主に、父でした。
 
 前述 しましたが、
 父は、周りの人々の犠牲で、
 仕方なく、働きづめでした。
 
 『犠牲者』でした。
 
 おそらく、そんな理由から、
 
 いつも、不満があり、
 いつも、イライラしていました。
 
 少なくとも、
 僕からは、そう、見えていました。
 
 
 その、父の不満の原因は、
 ときに、僕でした。
 
 なので、
 「イライラしている人」が居るとき、
 
  「その原因は、自分にある」
  「自分が悪い」
 と、
 感じます。
 
 
 また、多くの場合、
 不満の矛先は、
 母でした。
 
 なので、
 「イライラしている人」が居るとき、
 
  「自分が悪い」
 と、
 感じます。
 
 自分にとって、最も大切な母を、
 僕が、救えていないからです。
 
 僕が、守れていないからです。
 
 だから、
  「自分が悪い」
 と、
 感じます。
 
  「自分はダメだ」
 と、
 感じます。
 
 
 なので、
 「イライラしている人」が居るとき、
 その人を、
 放っておけません。
 
 そのままに、しておけません。
 
 「イライラ」しているままに、
 させてあげられません。
 
 なぜなら、
 「イライラしている人」が居る間中、
 
  「お前が悪い」
 と、
 言われ続けているからです。
 
  「自分はダメだ」
 と、
 言われ続けているからです。
 
 実際には、
 「イライラしている人」が、
 そのようなことを、言わなくても、
 
 そのようなことを、
 思ってすら、いなかったとしても、
 
 「実質的」には、
 「心情的」には、
 そう、言われているのと、同じだからです。 
 
 
 僕の場合、
 主に、以上のような理由で、
 「イライラしている人」が、
 苦手なのですが、
 
 ただ、そのことは、
 これまでに、すでに、認識できていました。
 
 なので、
 認識した上での、浄化を、
 これまでに、行ってきました。
 
 
 加えて、先週、
 新たに、
 別の「理由」があることを、発見しました。
 
 これまでの浄化の成果か、
 別の「想い」に、気づけました。
 
 
 自分の想いとしては、
  「その原因は、自分にある」
  「自分が悪い」
  と、感じる
 
 ということは、
 これまでと、同様なのですが、
 
 では、
  どうして、
  「その原因は、自分にある」
  「自分が悪い」
  と、感じるのか?
 
 に関しては、
 別の理由がありました。
 
 
 それは、
 気づいてみて、
 「気づいた自分が、驚いてしまう」ような理由、
 
 いえ、というよりも、
 むしろ、『理屈』だったのですが、
 
 それは、
 
  「その原因は、自分には無い」
  「自分は悪くない」
  と、
  認識してしまうと、
  捉えてしまうと、
  
  自分には、
  その状況を、変えることができなくなってしまうから
 
 というものでした。
 
 
 「その原因は、自分には無い」「自分は悪くない」
 と、認識してしまうと、
 
 「自分は悪くな」くて、
 「自分に原因が無い」ので、
 
 自分には、
 その状況を、変えることができなくなってしまいます。
 
 「自分には、その状況を変えることができない」
 と、
 自ら、認めてしまうことになります。
 
 自ら、宣言してしまうことになります。
 
 よね?
 
 だって、
 「自分は悪くな」くて、
 「自分に原因が無い」のですから。
 
 
 なので、
 実際のところは、
 自分が悪くなかろうが、非が無かろうが、
 
  「その状況を変えることができる」
 という『可能性』を持つために、
 
  「自分が悪い」
  「自分に原因がある」
 と、
 自分で思い込んでしまう、
 という行為を、
 
 無意識のうちに、
 自分の内側で、
 行っていました。
 
 その結果、
 自分が、より、痛むことになろうと、
 自分が、より、辛いことになろうと、
 
  「もしかしたら、状況を変えることができるかもしれない」
 という、
 論理的に考えたならば、「有り得ない『可能性』」を持つために、
 その可能性に縋(すが)るために、
 
 自ら、
  「自分が悪い」
  「自分に原因がある」
 と、
 無意識に、思い込んでいました。
 自ら、決め込んでいました。
 
 
 いまであれば、
 『浄化』というものを知っていて、
 
 内側・自分の感覚を変えてしまう、
 という、「対処方法」を、知っているので、
 
 いまであれば、
 そのように思い込むことなど、しないのではないか、
 と、思いますが
 (するかも、しれませんが ^^; )、
 
 そう思い込みはじめたときには、
 そうするしか、無かったんですね。
 
 そして、その習慣が、
 無意識のうちに、続いていたんですね。
 
 
  「自分にはどうにもできない」という " 絶望 " に比べれば、
  「自分が悪い」という " 痛み・辛さ " のほうが、まだまし
 
 そんな表現が適切な、
 そんな『理屈』によって、

  「自分が悪い」
 という決めつけ・思い込みを、
 自ら、取り入れ、引き込み、
 
 そして、
 自ら、痛み、苦しんでいたことに、気づきました。
 
 しかも、それは、
 そもそも、見当違いな思い込みなので、
 それが、外部から解消されることは、ありません。
 
 なので、
 その痛み、苦しみは、
 際限なく、長続きします。
 存続し続けます。
 
 自分が、止めない限り ...
 
 とても辛い、自己仕打ちでした。
 
 
 でも、
 
  「いや、『自分が悪い』のでは、なかったんだ。
   そう、思い込んでいただけだったんだ。
   自分は、悪くなかったんだ!」
 
 そう、気づいたとき、
 そう、こころから思えたとき、
 
 「他人の『イライラ』」に対する感覚が、
 少し、
 いえ、ずいぶん、小さくなっていました。
 
 
 そして、
 なにより、
 
 そう、気づいたとき、
 そう、こころから思えたときに、

 こころの底から、じわじわと、湧き上がった、
 安堵感、開放感。
 自己肯定感 ...
 
  「そうかぁ、
   これを、この感覚を、感じるために、
   長い長い間、わざわざ、自ら、
   自己否定をしていたんだな」
 
 この週末は、
 これまでとは、また、ひと味違った、
 特別な感覚に、浸っていました。