2017年12月29日金曜日

選択


 今年2月に、ハワイ島を訪れて、
 そしてはじめて、
 こころから納得できたことがあります。
 
 
 ハワイ島では、
 文字通り、
 大地が生まれていました。
 
 粘度の高い溶岩が噴き出し、
 海へ流れ出したものは、新たな陸地を生み出し、
 陸上に留まったものは、新たな表層を形成していました。

海に流れ込む溶岩

 それら、「新たに生まれた大地」は、
 漆黒の、固く、荒々しい、「岩」です。
 
 何年・何十年もの間、
 そのままの形状・形態のままに留まり、
 
 生物たちが近づき、居住することを、
 無慈悲なまでに、拒絶し続けます。
 
 
 しかし、やがて、
 そんな岩肌に、
 根を張り、生活を始めるものが現れます。
 
 細長い単葉の草たち、
 あるいは、シダ類、
 
 そして、今回、
 僕が目にして、心奪われ、感銘したのは、
 オヒア( Ohia )でした。
 
キラウエア火山火口(ハレマウマウ)で目にしたオヒアと、その花レフア

 
 ニュージーランドで、この初夏の時期に咲き誇り、
 地元の人々にとって、シンボルとも言える樹、
 ポフタカワ( Pohutukawa )と、親戚関係にあり、
 
 そんなことからも、
 はじめて目にした時から、
 とても親しみを感じた、オヒア。
 
 そんなオヒアが、
 レフア( Lehua )と名前の付けられた赤い花を携えて、
 
 漆黒の固い溶岩の上に、
 ひとり、ひっそりと、しかし健気に、
 たたずむ姿を、
 
 幾箇所かで、目にしました。
 
 
 さて、
 そんな、岩の上に根を張り、生を営み、
 
 やがて、その命を終え、サイクルを終え、
 その身体を横たえ、枯れ、朽ちていくと、
 
 続いて、
 その状態になって初めて、
 その場に、根を張り、生きることができる種類の植物たちが、
 そこで、生活を始めます。
 
 固い岩肌には、直接・いきなりは、住めないが、
 しかし、シダやオヒアなどの、第一世代が暮らした後ならば、
 
 彼らによって、岩肌を少し崩し・細かくされ、
 そして、彼らの根や幹・葉などの有機物が堆積された後ならば、
 
 その状態ならば、暮らせる植物たちが、
 次に、そこに生えます。
 
 そして、その彼らが、生涯を終えた後には、
 その状態になって初めて、暮らせる植物たちが、
 続いて、そこで生活を始めます。
 
 そんな変遷を、繰り返し、
 そんな連携を、紡ぎ、重ねることによって、
 岩が、土へと、変わって行きます。
 
 土壌が肥え、
 やがて、多種多様な植物が暮らせる土地になっていきます。
 
 実際、ハワイ島でも、
 降雨量の多い地域には、
 「ジャングル」とは行かないまでも、
 数種の樹木が密生しているような、
 緑豊かな、緑深い地域も、存在しています。
 
 そこでは、
 そのような、植物たちによる、
 「命の連携」が、
 脈々と、連綿と、繰り返され、
 
 その結果として、
 そのような環境が生み出されきたのです。
 
 
 さて、冒頭に申した、
 今回、はじめて、こころから納得し、理解したこと、
 というのは、
 
  その、「命の連携」によって、
  土壌が作られ、緑豊かになっていく
 という、
 「その部分」では、ありません。
 
 そのことも、含まれているのですが、
 それらを含めた上で、
 
  「その連携」が、
  『自然と』、営まれ、紡ぎ出されている
  
 という部分です。
 
 その連携が、
 誰かに命じられ、あるいは誰かに操作されて、
 なされているわけではなく、
 
 その植物、その植物、それぞれが、
 ただ、自分が生きることができる場所・環境で、
 ただ、生きると、
 
 それが、意図したわけではない結果として、
 自然と、続く種族のための環境を作り上げることになる、
 
 という部分です。
 
 その結果、
 地球表面が、進展し、豊かになり、
 数多くの種類の植物が、
 その結果、数多くの種類の生物・動物たちが、
 地表で、生きていけるようになる、
 
 という部分です。
 
 それが、
 『自然と』、
 行われているということ。
 
 その部分です。
 
 
 つまり、
 
  地球は、
  それぞれの生物が、ただ、生きていると、
  自然と、勝手に、豊かになっていくのだ
 ということ。
 
  生物たちは、その連なりとして、連携して、
  自然と、地球を豊かにしているのだ
 ということ。
 
 そのことです。
 
 
  「いやいや!
   この世は、『弱肉強食』だろ。
   生物たちは、捕食・被捕食関係にあって、
   それぞれ、利害が対立した関係だろ」
 
 先の話をお読みになられて、
 そう、お思いになられた方も、
 多数、いらっしゃることと思います。
 
  虫は、植物を食べ、
  鳥は、虫を食べ、
  草食動物も、植物を食べ、
  そして、肉食動物は、草食動物を食べる ...
 
  この世は、地球上は、
  強いもの・賢いものが、より弱いもの・愚かなものを、
  食べる・搾取する世界だ。
 
 たしかに、
 そう、見ることもできます。
 
 そして、
 その見方からすると、
 
 地上は、この世は、
  「殺し合い」「奪い合い」「競争」「努力」「生き残り」
 の世界です。
 
 
 一方、
 今回、僕が納得した見方では、
 
 では、
  それらの行為については、どのように見るのか
 というと、
 
 たとえば、
 「虫が、植物を食べる」のは、
 
 たとえば、
 植物の身体の部分の、「腐敗」してしまった部分を、
 虫が、食べてあげることによって、
 
 むしろ、
 植物の活動状態(健康状態)を維持・回復させてあげている、
 
 あるいは、
 草食動物が、腐敗した植物を食べないで済むようにしている、
 
 と、捉えます。
 
 
 あるいは、
 「草食動物が、植物を食べる」行為は、
 
 草食動物が、植物を食べ、消化し、
 糞・尿に変換することで、
 
 植物の推移によるだけの進展よりも、
 より早く、より効率的に、
 土壌の進化を進めることができる、
 
 と、捉え、
 
 また、
 「肉食動物が、草食動物を食べる」行為については、
 
 草食動物が、植物を食べ過ぎてしまい、植物が減り過ぎてしまい、
 かえって、土壌の進展が遅くなってしまうことを、防ぐとともに、
 
 草食動物の肉体を、食べ、消化し、
 より早く、より効率的に、
 土壌へと戻し、土壌を進展させるため、
 
 と、捉えます
 (肉食動物には、生きている動物を食べるものと、死体を食べるものと、居ます)。
 
 
 また、
 実際のところ、
 「弱肉強食」的な見方においても、
 
 たとえば、蝶や蜂といった虫たちが、
 植物の花の蜜を吸うという行為は、
 
 その行為の結果、
 植物たちの受粉が行われ、促され、
 その結果、結実し、
 その結果、当該植物の子孫が生まれ、世代が繋がる、
 
 と、
 捉えられていると思います。
 
 それぞれが、ただ、そのまま、生きることが、
 (ケースによっては、「長い目で見たときに、はじめて」ではありますが)
 それぞれが、それぞれを、助け合うことになり、
 
 それによって、すべての存在が、連携して、
 地上・地球という全体を、より豊かにする方向に進めている、
 
 と、
 認識されているものと思います。
 
 
 ですが、 
 いずれにせよ、
 
 このような見方においては、
 
 地上は、この世は、
  「共存」「共栄」「連携」「輝き合い」「そのまま」「循環・進展(における部分)」
 の世界です。
 
 
 さて。
 
 前振りが長くなりました、いつもながら ^^; ...
 
 この記事で、お伝えしたいことは、
 このあとの部分です。
 
  「それなら、
   『弱肉強食』と、『進展促進連携』と、
   どっちが正しい?」
 
 そう、思われませんでしたか?
 
  「正しい方を、知りたい」
 
 と、思われましたか?
 
 あるいは、
 
  「いや、そう言われたところで、
   『弱肉強食』としか、『生き残り』としか、
   思えないんだけど、
   じゃぁ、どうしたらいいんだ?
   それでいいの?」
 
 そう、思われませんでしたか?
  
 
 私たちは、「正しさ」を求めます。
 
 しかも、それを、『外側』に、求めます。
 
 しかし、
 今、この世には、
 
  「この世は、『弱肉強食』『生き残り』の世界だ」
 と思って生きている人もいれば、
 
  「この世は、自然に『連携』して『より豊かにしている』世界だ」
 と、思っている人もいるわけです。
 
 どちらの人も、
 この地球で、同じときに、生きているわけです。
 
  「どちらかの考え方をとらなければ、
   死んでしまい、生きていられない」
 というわけではありません。
 
 だからこそ、両者が居るわけです。
 
 
 500年ほど前まで、
 私たちは、
 「地球の周りを、太陽が動いている」
 と認識して、
 
 生きていました。
 
 それで、
 生きていてることができました。
 
 それで、
 何も、問題はありませんでした。
 
 今、そのように認識している人は、
 おそらく、ほとんど、居ないと思いますが、
 
 しかし、
 当時(それ以前)の人々は、
 
 そう、認識していることで、
 何も問題なく、生きていました。
 
 
 あるいは、
 「地球は平面だ」と、
 そう、認識して、
 
 そのうえで、
 何も問題なく、生きていました。

 
  「地球のほうこそが、動いているのだ」と、
  「地球は、球体・球面だ」と、
 そう、認識しないと、
 生きていられないわけでは、ありません。
 
 
 また、
 今の、この、
  「地球のほうこそが、動いているのだ」
  「地球は、球体・球面だ」
 という認識にしたところで、
 
 それが『正しい』のかどうか、分かりませんよね。
 
 たとえば、
  「すべては、映像だ、ホログラフィだ」
 という認識が、
 正しいとされ、一般化されたときには、
 
 今の認識は、
 前近代の、旧い、誤った認識であると、
 みなが、鼻で笑うことでしょう。
 
 
 ただ、
  「太陽が廻っている」
 と認識するのと、
 
  「地球が廻っている」
 と認識するのとでは、
 
 体験する事柄が、違います。
 
 同様に、
 
  「弱肉強食の地球」
 という認識を持って生きるのと、
 
  「進展促進連携の地球」
 という認識を持って生きるのとでは、
 
 体験する事柄は、違います。
 
 体験し、感じる、感情・感覚は、違います。
 
 ただ、
 それは、
  「どちらが、正しいか?」
 の問題ではありません。
 
  「どちらを、自分は、選択するのか?」
 の、問題です。
 
 
 ぜひ、ここで、
 改めて、
 津留さんのメッセージ集の「 選択 」を読んでみてください。
 
 
  「想っているとおりを、体験する」
 のだとしたら、
 
 私たちは、
 
  外の世界にある、客観的事実としての「正しいこと」
 を、
 体験するのではなく、
 
  自分の内側で、「正しい」としたこと
 を、
 体験するのです。
 
  自分が、自分の内側で、「正しい」とラベルを貼ったこと
 を、
 体験するのです。
 
 であれば、
 津留さんが言っているとおりに、
 
 どうぞ、
  「あなたにとって都合のいい考え方を選び取ってみて」
 ください。 
 
 
 あと数日で、
 2017年が終わります。
 
 来る年からは、
 もう、「正しさ」「正解」を探すことは、
 ご一緒に、終わりにしませんか?
 
 私たちは、
 もう、充分に、十二分に、
 『正しさゲーム』を、体験したのではないでしょうか?
 
 
 『正しさゲーム』は、
 奥の深い、ゴールの無い、
 極めて『面白い』『複雑な』ゲームです。
 
 それによってしか味わえない体験・感覚に満ちた、
 極めて『魅力的』なゲームです。
 
 しかも、
 それを(基本的に)参加者全員で体験する、
 ということを、行ってきました。
 
 それでこそ、はじめて、体験できること、味わえることを、
 味わうことが、できてきました。
 
 それは、
 私たち全員(集合意識としての人間)にとっては、
 極めて『魅力的』で、
 
 恋い焦がれて、渇望した果てに、
 望んで、体験して来たことです。
 
 そのことは、認めます。
 
 
 ですが、それらは、
 もう、散々に、味わってきました。
 
 よね?
 
 
 もし、そう思われる方は、
 そう思われた方から、
 ご一緒に、
 
 今度は、
 『選択ゲーム』を、プレーしませんか?
 
 攻略法や、コツ・ポイントなどは、
 ぜひ、シェアし合いましょう!
 
 
 そんな2018年にしていこうと、
 僕は、思っています。