2017年12月4日月曜日

二つの「シンクロ」に


 先月、11月13日に、
 「 幸せな幼少期 」という、
 僕が子育てに関して感じていることを、掲載しました。
 
 それまでの流れとは、全く関係なく、
 その日、突然、
 
  「あぁ、いま、これを書いておこう。
   いまなら、書けそうだな」
 
 と、
 ふと、思い、
 
 そして、
 パソコンに向かってみると、
 素直に、書けたからです。
 
 そして、
 その記事のアップをもって、
 大阪イベントに向かいました。
 
 
 そして、迎えた、
 大阪での、「『お金』浄化ワークショップ」。
 
 『お金』がテーマの、浄化ワークショップでしたが、
 お金以外のことにも、話題が広がり、
 
 そこで、既述のとおり(「 子育て こんなケースも 」)、
 このようなご質問も、いただきました。
 
  「子育てについて、不安に感じてしまうのですが ... 」
 
 
 その「偶然」を、
 「シンクロだ」と、認識しながら、
 
  「そのことでしたら、
   ちょうど、こちらに来る直前に、
   僕が考えていることを、ブログにアップしてきました。
   よろしければ、お読みください」
 
 と、申し上げました。
 
 ですが、
 感情的には、
 とくに反応することもなく、
 
 頭では、
  「現象は、ただの現象。
   そこに、意味は無い」
 と、
 判断していました。
 
 
 そして、一昨日、
 12月2日。
 
 どんなきっかけだったか、
 それすらも、覚えていないのですが、
 
 急に、
  「あぁ、『エゴ』にエサを与える件 を、
   ブログに書こう。
   いまなら、書けそうだな」
 と思い、
 
 書き始めると、素直に書けたので、
 それを、ひととおり書き終えるまでタイプし、
 その日は、寝ました。
 
 翌、12月3日、
 昨日の、朝。
 
 前日に書いた記事に、改めて目を通してみると、
 あらかた、すんなりと読めましたので、
 多少、校正をして、
 ブログにアップをしました。
 
 そして迎えた、
 その日の昼の、個人セッション。
 
 いらしてくださった、クライアントさんに、
 まず最初に、
 本日いらしてくださった動機・目的を、お聞きすると、
 
 その方が、開口一番、
 こう、おっしゃいました。
 
  「摂食障害というわけではないんですが、
   どうしても、過食してしまうんです。
   それを、止められないんです ... 」
 
 
 もう一度、
 似た現象が、
 より顕著な現象が、繰り返されました。
 
 そこで、今回は、
 改めて、はっきりと、
  「シンクロだ」
 と、認識し、
 
 加えて、
 それを、
  「ただの現象」
 とは、判定せずに、
 
  「意味あること」
  「必然として、起きてきたこと」
 と、
 受け止めることにしました。
 
 そう認識し、受け入れ、受け止めることが、
 いまの僕には、必要なんだと、
 解釈しました。
 
 
 僕は、ふだん、
 
  「意味づけ」
 を、
 極力、排するように、しています。
 
 スピリチュアルなことに、親しみはじめて以来、
 しばらくは、
 出来事の意味合いを考えていました。
 
 そして、
 出来事に対して、
 
  「すごい!」
 とか、
  「シンクロだ」
 とか、
  「それは、こういうことを表している」
 とか、
 
 そんなことを、
 盛んに、考え、評価していました。
 
 
 ですが、
 そのようなことを指向していると、
 
 まず、
 思考が、絶えず、動いてしまいます。
 
 思考で、
 「意味」を探してしまいます。
 
 
 そして、
 見いだされた「意味」に付随して、
 
 「良い」「悪い」の判断が、
 働いてしまい、
 その判断行為が、止まらなくなり、
 
 その結果、
 「気分」が動かされてしまいます。
 
 「悪い」との判断になれば、
 必然、気分は確実に下がります。
 
 
 しばらくは、
 そんなことを含めて、楽しく感じ、
 
 ある意味、積極的に、
 そんな行為を行っていたのですが、
 
 そのうちに、
 そのデメリット面が、
 「楽しさ」というメリット面を上回るようになり、
 
 自然と、
 物事・現象への判断を、抑えるように、
 
 場合によっては、
 否定し、毛嫌いするように、
 なっていました。
 
 
 ところが、
 そんな状況で迎えた、
 今回の、一連の出来事。
 
 自分の中に、
 「意味づけ」を、
 
 ある意味、「否定」し、
 「毛嫌い」すらしていることを、
 見つめ直さざるを、得ませんでした。
 
 
 スピリチュアルなことを知る前の、
  「(物事の裏側に、意味があるという可能性すら知らずに)
   物事・出来事には、意味は無い」
 という認識の段階から、
 
 スピリチュアルなことを知って、
  「物事・出来事には、すべて、意味がある」
 という認識の段階に移行し、
 
 そこを経て、
 現在の僕は、
  「現象は、ただの現象」
 という段階に至っているものと、認識していました。
 
 
 ですが、
 僕の場合には、
 
 「第2段階への否定」があった上での、第3段階、
 という状況なのであって、
 
 なので、
 厳密には、第3段階に至ってはおらず、
 
 第2段階の体験不足であると、
 理解しました。
 
 もっと、
 「現象を生み出している側」の意識・存在を肯定し、
 「現象を生み出している側」に、積極的に、同調してみる
 
 そんなことが必要なのだと、思いました。
 
 
 ちょっと、
 先を急ぎ過ぎたようです。
 
 頭だけで、
 先に進もうと、し過ぎたみたいです。
 
 まだ、アンバランスでした。
 
 
  「物事の裏側には、意味・意図が存在している」
 という認識は、
 
 僕が接する人々にとっては、
 とても大切な認識であるにもかかわらず、
 
 僕にとっても、
 重要な事柄であるにもかかわらず、
 
 僕の勝手な思い込みで、
 それを軽視し、排除すらしようとしていました。

 
 別の表現で表すと、
 
  「スピリチュアルであること」
 を、
  「スピリチュアルな表現・説明」
 を、
  「スピリチュアルなことを前提・当然とした上での説明」
 を、
 
 僕の勝手な思い込みで、
 極力、廃しようとしていました。
 
 
 でも、僕も、
 もうすこし、
 スピリチュアルであっていいみたいです。
 
 もうすこし、ゆっくりと、
 スピリチュアルな道程を、楽しんでもいいみたいです。