2017年12月5日火曜日

「なにもしないでいる」ことが、できない


   健康だけど、3日間 ただ 寝ていた、っていう人。
   
   これができる人というのは、実は 哲人ですね。
   もう学びの終わった人で、
   普通の人たちは、大体、何かしています。
   
   「何をしているか?」というと、
   基本的には、不安から 逃れようとしています。
   
   皆さんは100%例外なしに、
   幸せじゃない状態から、幸せになろうとする方向へ、努力しているんです。
 
     津留晃一 小冊子「 Q&A 」 より引用
 
 
 今日は、個人セッションの募集をしていましたが、
 予約が入りませんでした。
 
 こんな日は、
 いただいた「商品のご注文」を処理し終えれば、
 
 しなければいけないことは、
 何もありません。
 
 
 こんなとき、
 「なにもしないでいる」ことが、できません。
 
  何もせず、ボーっとしている
  ただ、寛(くつろ)いでいる
  ただ、寝ている
 
 ということが、できません。
 
 「何か」を、しようとします。
 「すべき何か」を、探そうとします。
 「今できる何か」を、探します。
 
 そして、何か見つかれば、それをします、
 例えば、この記事を書くように ... ^^;
 
 
 そんなとき、
 この、津留さんが遺してくれたメッセージを、思い出します、
 
 感心と、感歎と、ともに ...
 
 本当に、
  「なにもしないでいる」
 ということが、できませんよねぇ。
 
 
 確かに、
 「健康だけど、3日間、寝ている」という人は、
 いると思います。
 
 僕も、覚えがあります。
 
 でも、そのような人の場合には、
 「『ただ』寝ている」のではなく、
 
 「寝ていることしかできない」のだと思います。
 
 そのような人の場合には、
 「何かしなきゃ」という想いを持っていて、
 
 でも、その想いとは裏腹に、
  「でも、何をしていいか分からない」
  「何ができるのか、分からない」
  「何もできない」
  「寝ていることしかできない」
 のだと思います。
 
 「何かしなきゃ」力士と、
 「でも、何もできない」力士とが、
 がっぷり四つに組み合っていて、
 どうにも膠着してしまっているのですよね。
 
 「何かしなきゃ」アクセルと、
 「でも、何もできない」ブレーキとを、
 同じ力で、踏み込んでいて、
 その場で、ブレーキパッドが、ただ、摩耗してしまっているんですよね
 
 (過去記事「 アクセルとブレーキ 」)。
 
 
 日によっては、
 「すべきこと」を探していることに気づき、
 それを、止めることができます。
 
 でも、そんなときには ...
 
  「じゃぁ、『したいこと』をしよう!」
 
 そう言って、
 『したいこと』を、探し始めたりします。
 
 「『したいこと』を探す」ことを、します。
 
 本当に『したいこと』なら、
 探すまでもなく、「したい」と思っているでしょうに ...
 
 それに、
 『したい』と感じたときに、すればいいでしょうに ...
 
 
  「なにもしないでいる」ことが、できない。
  「何かをしてしまう」。
 
 その理由は、
 津留さんがいっているとおり、
 「不安」「恐れ」からです。
 
  「『今、このまま』を、良しとできない。 良しとは思えない。」
  「良しとできたとしても、でも『この先も良しのまま』とは思えない」
 
 そんな、
 今に対する不足感から、
 将来に対する不安感から、
 自分に対する不足感・不信感から、
 
 常に、
 「何かをしよう」としてしまいます。
 
 
 あるいは、僕の場合には、
 
 何もしないでいると、
 激しくはないけれども、でも、なかなかに強力な、
 ネガティヴな感覚を、感じてしまいます。
 
  「あぁ、暇だ」
  「あぁ、何もすることが無い」
  
 という、
 実に重苦しく、実に落ち着かない、感覚です。
 
 この、「暇だ」という感覚は、
 実は、とても根源的な感覚なのだと、僕は認識していますが、
 
 いずれにせよ、
 その、「暇で仕方ない」という感覚を感じないようにするために、
 どうしても、何かをしてしまうところもあると、自覚しています。
 
 
 「不安感」「不足感」であれ、
 それ以外の感覚(「暇で苦しい感」)であれ、
 
 私たちは、ネガティヴな感覚を感じないようにするために、
 常々、何かをしていますね。
 
 
 津留さんは、
  「呼吸に意識を合わせる」こと
   を継続することは、世界で一番難しいこと
 と、
 言っていましたが
 (過去記事「 神に還るというのは 」)、
 
 これも、「しようとしている」ことですね。
 
 だとすると、
  「なにもしないでいる」
  「ただ、寝ている」
  「ただ、ボーっとしている」
 ことこそ、
 もっとも困難なこと なのかもしれませんね ^^ 。
 
 
 まずは、
 「何かをしよう」としていることに、
 そうしている自分に、気づくこと。
 
 そして、可能ならば、
 その動機、「なぜ、そうしてしまうのか」を、認識すること。
 
 それらができたなら、
 あとは、次なる展開が、見えてくると思います、
 「しようとしなくても」 ^^ 。
 
 
 ところで、
 はじめに引用した、津留さんのメッセージ。
 
 僕にとっては、
 意外な方向に続いていきます。
 
  「さすがだなぁ〜」
  「すごいなぁ〜」
 
 そう、感心せざるを得ない、
 その後の展開。
 
 下記いたします。
 
 そして、
 それこそが、
 そこで言われていることこそが、
 
 『浄化』ということです。
 『浄化』でしようとしていることです。
 
 とてもご理解いただきやすいのではないかと思います。

 
 
   皆さんは100%例外なしに、
   幸せじゃない状態から、幸せになろうとする方向へ、努力しているんです。
   
   ですから、本当に幸せという人は、何もしていません。
   
   皆さん、普段からすでに体験していると思うんですが、
   「ああ嬉しい、幸せ!」っていう時は何もしないですよね。
   皆さんドタバタしないんです。
   じっとしています。
   
   ただ、それはすぐに通り過ぎて行くんですね。
   「幸せだなー」という状態はスーッと退いていくんですね。
   「そうじゃない」っていう人、いないでしょ。
   
   ずっと幸せ状態が続いたって人いないですよね。
   これは皆さん体験しています。
   
   実は不幸せも、これと同じなんですね。
   幸せと同じように「ああ、辛いなあ」ってじっと浸っていると、
   その感じはスーッと退いてどこかへ行ってしまうんです。
   あまりやらないでしょ?
   
   辛いときは、「何とかしよう」とするんです。
   自我は、自分の力で何とかぬけだそうとします。
   だから自分の今の不幸せな状態に意識が留まるんですね。
   それでまた不幸せなエネルギーをさらに作り出すのです。
   じっとしていればいいものを、
   「これじゃいけない、何とかしよう」という意識を持つと、
   またポッと不幸せになる。
   
   ちょうど鐘をつくような状態ですね。
   鐘をポーンと突くと音がスーッと消えていきますね。
   あらゆる感情というものは、退いていくんです。
   
   寄せてきた波が引いていくように、
   来た感情は引いて行くんです。
   
   それなのに、不幸が来たときはじっとしていられなくて、
   なんとかしようとそのことに意識が向きます。
   
   不幸には、皆さん対処するんですね。
   それが、再び鐘を突く状態です。
   
   意識が向くから、また顕在化する訳です。
   対処しようとすると、その不幸な状態に
   エネルギーを注いで行くことになるんです。
   だから、ちっとも減衰していかないんです。
   
   これが、その苦しみが続いていく理由なんです。
   どちらかというと対処すれば、するほど、苦しみというのは大きくなります。
   
   嫌いな人がいて、嫌いな人を非難する。
   そうすることは、嫌いな人をさらに顕在化させて、
   その人にエネルギーを与える状態になるんです。
   
     津留晃一 小冊子「 Q&A 」 より引用